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愚かという徳

2009年03月21日 | 読書
 『長崎乱楽坂』(吉田修一著 新潮文庫)を読む。
 吉田修一の小説を読んでいると、人間の「業」とか「性」とか言っていいのだろうか、どうしようもなく切なくなることがある。
 この話も確かに昭和の頃にはそういう世界が存在したと思わせ、どうにも納まりのつかない結末なのだが、描く人間像に曳きこまれるような気がした。

 川井湊という批評家が解説を書いているが、その一節に妙に考えさせられた。

 世の中が「愚(おろか)」という徳を持っていた時代と社会

 「愚と徳」といういわば反対の意味である言葉を並べる比喩表現をどう解釈するか。辞典的な解釈ではどうにもならぬが、なんとなくわかるイメージがある。
 人間は愚かなことをする生き物であり、それはどうにも認めざるをえないのに、その範囲を酷く狭めてきていることがわかる。その窮屈さは、徳と呼ばれる心そのものも縮めてしまってはいないか。

 ビートたけしの「振り子」の話ではないが、いわば愚かさも全て含めて徳として成り立つ、愚かさは徳の一部なのだという解釈ができるのではないか。
 愚と見える行為をどこまでも糾弾し、排斥していくことに夢中になっている世の中こそ、もっと大きな愚かさに包み込まれてはいないか。

 「愚か者」という曲、もちろんマッチじゃなくショーケンに尽きるでしょう、などとふと思う。

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