なぜ勉強するのか、なぜ勉強しなければいけないのか、という問いは答えにくいものです。そういう問いが子どもたちから発せられるというのは、すでに大人社会の敗北です。勉強する理由というのは、本来言葉ではなく、大人たちの姿勢の中に答えがあります。
村上 龍「総合教育技術 2005.4」(小学館)
どんなに言葉をつくそうとも答えられない問いがある。
「なぜ勉強するのか」と尋ねられて
いくつか具体的な返答をすることはできるだろうけど
その問いを自分の中に引き込んでみせる人の姿こそ
その答えになるのだと教えてくれる。
村上 龍「総合教育技術 2005.4」(小学館)
どんなに言葉をつくそうとも答えられない問いがある。
「なぜ勉強するのか」と尋ねられて
いくつか具体的な返答をすることはできるだろうけど
その問いを自分の中に引き込んでみせる人の姿こそ
その答えになるのだと教えてくれる。
高校生が「勉強する理由」を自分自身の中に見つけれるならば、必然的に、「勉強する」ということに積極的になれ、またモティベーションも高くなります。日本ではそれが「入試」という制度の下で高まっていますよね。
クラスで一回「(社会科を)勉強するする理由」を話し合ったことがあります。私のように未熟なものは、「姿勢の中」に現すまで数年以上かかると思うので、なかなか答えられない、このような問いを、大いにクラスで考える問いとして扱おうと思いました。学生、教師自身の中でこのような問いを自問自答することで、徐々に、意識化がはかられるものだと思いました。「大人たちの姿勢の中」に答えがあるとき、この問いが意識された結果、自分なりの答えが見つかった時だと思います。
と行ってみましたが、自分はまだまだ修行が足りません・・・。
明確に理由がある場合も大切ですが、そうでなくて自然に身体や頭が動く勉強(こちらは学びなのかなあ)を求めたい気がしています。
「修行」いいです。この頃養老先生も好んでつかっていますね。
初コメント、ありがとうございました