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行為に先立つ意味がないのは…

2024年06月21日 | 読書
 『数学の贈り物』(森田真生 ミシマ社)の感想メモの続き。「意味」と題された章は、なるほどと思った。数学が苦手と語る人々は「『意味が分からなくなった』ことを以て『挫折』と決めつけてしまっているようである」と記し、分数の割算や、負の数によるかけ算などの例を出している。確かに思い当たるふしがある。


 ふと教員採用になる半年前、講師の時に中学校3年生へ数学を教えた(補充だったのだろうか)その教室で「1/2÷1/2の意味が分かる奴はいるか」と問い、いわゆる秀才も含め誰一人挙手できなかった場面が蘇ってきた。本質を理解しないまま包含除の考え方で誤魔化した時間が今さら恥ずかしい。そもそも意味は必要か。




 著者は、数が当初は意味を表現する道具だったが、記号として自立すれば演算は意味の記述のために定義されないと述べる。始めから予定された意味などなく、記号が人を導き「次第に意味はつくりだされていく」とし、「×(-1)」の演算行為を例にしながら、分配則や数直線の空間的なイメージをもって説いている。


 苦手と称する者に救いになるような一言がある。「自分が数学についていけなくなったのではなく、意味が数学についていけなくなったと考えてはどうか」この発想は、数学に限らないのではないか。ただそれは、意味を軽んじるということではないだろう。「意味ないじゃん」「意味わからん」を常套句には出来ない。


 「行為に先立つ意味がないというのは、日常においては常識である」


 この一節を深くとらえよう。我々大人は、ある面で「意味」の世界に安住している。日常生活のモノやコトはほとんどが意味づけられており、それゆえ時々目の前に登場する「意味不明」に心揺さぶられる現状がある。既成の知識や情報にすがってはいけない。やはり「意味をつくりだす」姿勢が、最後の手綱である。