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習合に込められた意味を知る

2020年10月29日 | 読書
 「習合」の意味を知らなかったし、当然使ったこともなかった。広辞苑には「相異なる教理など折衷・調和すること」とあり、「神仏――」と例が挙げられていた。この著の核として、明治初頭に出された政令による「神仏分離」が取り上げられ、その極めて特殊な状況、成り行きを考察しながら、現状と結びつけている。


『日本習合論』(内田樹 ミシマ社)


 この本は、著者のブログに載せられた文章に誘われて手に取った。その時にも書いたように、共感や和の盛り上がり、そしてその裏にある差別や排除に対する警告的な書といっていいだろう。むろん、共感や調和が否定されているわけではない、そこに至る過程の問題視、吟味だ。「習合」に込められる複雑さの許容だ。


 宗教や学問に対する知識が浅いので、よく呑みこめなかった部分もある。ただ、この国は歴史上の様々な事態に対して、なんとか「折り合い」をつける国だったことを改めて感じる内容でもあった。ただ、私たちは今、そうした歴史を捨てにかかっている。政治的な流れやグローバル化により、その考えが浸食している。



 印象深い一節を、少し長いが引用する。

「今や人々はこんなふうに考えるようになった。(1)人間の行うすべての認識には階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている。(2)すべての認識が自民族中心主義的臆断である以上『私は客観的事実を見ている』と称する資格は誰にもない。(3)ゆえに、万人は客観的事実のことなど気にかけずに、自分の気に入った自民族中心主義的妄想のうちに安らいでいればよろしい。」


 姦しく報道されるアメリカ大統領選挙などは最たるものだ。翻って我が国の政策にもずいぶん当てはまる。それを受けとめる側がどうあるべきか。「安らいで」いたい心は、知らず知らずのうちに首を絞めていくことだと気づく。では、どうするべきか。やはり、そうか…この本の提言はこの頃の読書と軌を一にしていた。
 つづく