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予言の書などに頼らない

2020年10月27日 | 雑記帳
 「予言」が、広辞苑(第五版)の書く「未来の物事を推測して言うこと。また、その言葉」の通りだとすれば、それは自分が「推測して言」えば、誰しも予言者にはなれるわけである。そこで問われるのは推測力にほかならない。しかし一般的に「予言」というと私の世代では「ノストラダムス」か。オカルトっぽい。


 雑誌『ちくま』の冒頭エッセイで、作家金井美恵子が「予言について」と題して書き始めたのは先月(10月)号からである。今夏に『ノストラダムスの大予言』の著者五島勉氏の死去記事を発端に、昭和期から現在までの様々な騒動と終末論的なことの関わりについて述べている。11月号ではアートなども登場する。



 今回のコロナ禍に関しても、小説「ペスト」に始まりいくつか類した書物が「予言的」のような形容で紹介された。しかしそれは予言の意味からすると当然のことなのだと、改めて思う。つまり「推測」できたこと。それは禍の発生から広がり、そして対策の甘さや不備に至るまで、一定の見通しを持った人はいたのだ。


 文中に引用された、かしこまった文章でいえば「注意深く、日常の中で埋もれたものや見過ごされたものを見つめたり、角度を変えて見たり、過去に学んだりする」人となる。金井はそれを単に「歴史感覚と日常感覚をもって思考する常識的な人間の生き方」と括る。この常識と思われることが出来にくい世の中だ。


 コロナの語が囁かれだしてから九か月が経つ。間違いなく歴史的な事象だと思う。それなのに心理的な緩みを認めざるを得ない。世界情勢、国内の感染者数を見ても、慣れっこになっている感覚に気づくこともある。その心身を警戒し、予言はできなくとも、「社会全体で共有すべき経験知」を作りだす一員ではありたい。