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しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

日下部直起展「イタリアの光跡」

2018-09-04 23:39:00 | 美術
神戸・北野のギャラリー島田で日下部直起さんの個展「イタリアの光跡」が開かれています。
期間は9/1(土)~12(水)。



シュプリッターエコーの山本忠勝が記者時代に書いた評を置いてくださっていました。


(takashi.y



坂の上の作家たち(続報)

2016-05-24 01:36:00 | 美術
ギャラリー島田にて5月21日、わたしたちシュプリッターエコーの山本忠勝が、お集まりいただいたお客様を前に島田誠さんの進行でお話をさせていただきました。お忙しいなか足をお運びいただいた皆様、ありがとうございました。

このたび『坂の上の作家たち』を出版してくだった島田誠さん、神戸凮月堂会長の下村俊子さん、モダンダンスの藤田佳代さん、ピアニストの伊藤ルミさん、そして、栃原敏子さん、金月炤子さんをはじめとした美術家の皆様より、あたたかい、心のこもったお言葉をいただきましたこと、深く感謝を申し上げます。

また、シュプリッターエコーそのものにも、優しい励ましの言葉をいただき、ありがとうございました。

『坂の上の作家たち』発刊記念展はギャラリー島田(神戸市中央区)で5月25日まで開催されています。
ギャラリー島田のホームページ→ http://gallery-shimada.com

坂の上の作家たち

2016-05-17 00:19:00 | 美術
ギャラリー島田(神戸市中央区)の島田誠さんが、山本忠勝(シュプリッターエコー)の美術評論集を企画・出版してくださいました。
タイトルは『坂の上の作家たち』。
出版記念展が5月14日から25日までギャラリー島田で開かれています。
よろしければハンター坂を上り、足をお運びください。

神戸新聞が記事を掲載してくださいました。
http://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201605/0009084273.shtml

「KOBEグー」の表紙

2015-01-16 01:47:00 | 美術



地下鉄の駅でフリーマガジンの並んだラックの前を通りかかって、いつもなら表紙だけながめて通り過ぎるタウン誌だけど、そこにプリントされた絵に妙に心ひかれるものがあり手に取ってみると、井上廣子さんの作品だった。

いまBBプラザ美術館(神戸市灘区)で開催されている「震災から20年 震災 記憶 美術」に展示されている作品なのだそう。タイトルは「Mori:森/陸前高田」。

手に取らされた僕から言わせると、これほど強い作品の力の表われ方というのもない。思わず足を止め、近寄り、手に取る──。

そういえば、2006年に越後妻有(えちごつまり)トリエンナーレへ行ったときも、田んぼのなかをウロウロ井上さんの作品どこだろなーと探していたのだけど、遠くにそれがみえた途端──みえたというより、その影、その気配を感じた途端、よくわからないけど妙にはっきりと、あれが井上さんの作品だ! と分かった、分からされてしまった、そんな経験がある。

スケールが大きく、そしてまた繊細で──稀有な作家さんだ。

「KOBEグー」の表紙をめくると神戸市立博物館の廣田生馬さんの解説があった。陸前高田市の海岸で、東日本大震災の津波に流されずに残った一本の松を描いた作品だという。松はその後枯れてしまい、いまは人工的な加工を施され、モニュメントとして保存されている。

井上さんからうかがった阪神淡路大震災のお話を思い出す。

自分自身いろいろ思い出す。

「震災から20年 震災 記憶 美術」の案内は「シュプリッターエコー」ホームページの「NOTE」にも掲載されています。井上さんの他にも、榎忠、金月炤子、古巻和芳、栃原敏子、堀尾貞治、WAKKUNら、どういえばいいのか、このラインナップの確かさに唸らされる。

宇宙へ開かれる青―能勢伸子個展

2013-08-10 20:32:00 | 美術
 神戸・六甲道のギャラリー花六甲で能勢伸子さんの個展を見た(2013年7月30日~8月4日)。
 青の世界だ。
 流動する青がある。
 噴き上がる青がある。
 雪崩れ落ちる青がある。
 はげしく渦巻く青がある。

 風だ、この青の動乱は。
 天空を渡る風。
 大気圏を揺する風。
 大地を踏みつけて走る風。
 だが驚くべきことは、ここには地底を突き進む風さえもあることだ。
 水底で渦巻く風さえあることだ。

 ヴァルトブルク城の歌う騎士を大地の底深くへ誘ったヴェヌス(※)。
 あのヴェヌスの洞窟にも青い風が吹いていた。
 青い風が洞窟いっぱいに歌っていた。
 妖艶な神秘の歌を。

 永遠の生と永遠の至福を約束する神秘の歌。

 そして同時に死に満ちた神秘の歌。

 この青は深い両義の青である。
 すべての絵を両義の風が吹きぬける。

 さまざまな試みを重ねてきた作家である。
 大きなインスタレーションでギャラリーを埋め尽くしたこともある。
 いま、小さなタブローの世界へ戻ってきた。
 むしろ、小さなタブローの世界へ踏み出した。
 むしろ、限定された青の世界へ踏み出した。
 そこは、深い。
 これまでになく、深い。

 作家の底の洞窟が開かれた。
 宇宙へぬける洞窟だ。

 (※)ワーグナー「タンホイザー」

創造のダイナミズム―バケッタ・マジーカ展

2012-07-26 19:21:00 | 美術
 美術教室バケッタ・マジーカの展覧会をGALLERY北野坂(神戸市中央区)で見てきました。
 子供から大人まで、年齢の垣根を超えて描くこと、作ることの楽しさを分かち合っているグループです。
 障害者と健常者が一緒に制作していることも、この教室の特徴です。
 主宰者は現代美術家の能勢伸子さんです。

 とりわけぼくは、障害者たちの作品にいつもうならされてしまいます。

 
 阪急電車が大好きで、阪急の100年の歴史をすっかり頭に収めている若者がいます。
 時刻表もみんな即座に言えるのです。
 今回の展覧会は神戸電鉄がモチーフです。
 路線図が丁寧に描かれています。
 鉄道の地図が作品になるのです。

 画面の半分にたくさんの人の顔をきれいに並べ、もう半分にそのときに目撃した光景をかきこんでいるメンバーもいます。
 出来事の記録が作品になるのです。
 描き方がきれいなパターンになっていて、そのパターンがどれにも強く出てきます。
 似たようなニュアンスのものをどこかで見たなあ、と思ったら、マヤのインディオたちの絵文字がこんなふうでした。
 マヤ文明の人々はそうして石に歴史を刻みました。
 人間の奥底を流れている認識の秘密を見るようでした。

 地下鉄電車が走り出す、そのときのプラットホームの光景を描き続けている生徒もいます。
 画面に何本もの直線が並んでいます。
 電車がスピードをあげるにつれて、窓外でもスピードを増して走っていく柱が、そのように描かれます。
 柱に重なるようにして駅名が飛んでいきます。
 わくわくしながら描いているのがわかります。

 
 わたしたち人間のありかたをブラックホールにたとえたのは、フランスの哲学者ドゥルーズです。
 じっさい、他者とのコミュニケーションに大きな壁を持っている障害者が、こんなダイナミックな作品を発表しているのを前にすると、人間というこの存在の底知れなさにうたれます。
 奥底の広さと深さと豊かさがわかります。

 宇宙の神秘を象徴するブラックホールが、ふつう言われているように、なにもかも内部へ閉じ込めてしまう密室などでは決してなく、エネルギーを周りへ放出しているダイナミックな空間でもあるということ、そのことをあかしたのは、20世紀最大の物理学者の一人、ホーキング博士でした。
 周辺では粒子と反粒子も生まれているということです。
 閉じられている場とみえて、実は開かれてもいるのです。
 そんな宇宙の創造と人間の創造が熱く重なる展示です。 

 バケッタ・マジーカ(Bacchetta Magica 魔法の杖)の展覧会「らくがきクラブ展3」は7月24日(火)~29日(日)。31人が出品。
 GALLERY北野坂は http://www7.ocn.nr.jp/~kitano/

進化する幻想都市・神戸―戸田勝久展

2012-07-08 21:04:00 | 美術
 戸田勝久さんの個展を見てきました。
 JRの元町駅近くに出来た新しい画廊「ギャラリーロイユ」(galerie L'oeil)で16日まで開かれています。
 精緻(せいち)このうえない作品です。
 そこから深い幻想が立ち上がってくるのです。
 題して「六月の夜の神戸の空」。
 都市神戸の幻想です。

 神戸に生まれ、神戸で育ち、神戸で制作を続けている作家です。
 神戸を深く愛している作家です。

 神戸を愛するものたちには、一つの共通項があるようです。
 たいがいのひとが二つの神戸を生きてます。
 一つは、現在ここにあるこの21世紀の現実の神戸です。
 そしてもう一つは、かつてここにあって、今はもうないけれど、想像力の中でいきいきと生きている幻想の神戸です。

 こういえば、それはどの都市でも同じことではないか、と反論されるかもしれません。
 けれど、神戸の場合は他都市とちょっと違うのです。

 首都東京の100メートル先を走っていたといわれるかつての神戸(映画評論家の故淀川長治さんの言葉です)は、1945年の空襲で火の中に消えました。
 灰燼(かいじん)に帰しました。
 しかしそこで奇跡が起こったようです。
 アヴァン・ゲールのその神戸はそこで断絶しませんでした。
 場所を現実の空間から、一転ひとびとの心の空間へ移したのです。
 ひとびとの体にもぐりこんだともいえるでしょう。 
 もぐりこんだどころか、そこで再び強い成長を始めました。

 いま、神戸港を歩きます。
 するとひとはここでは大型のコンテナ船が入ってくる今の港と、大小の客船や貨物船でにぎわっていた昔の港を同時に歩くことになるのです。
 いま、北野のあたりを歩きます。
 するとひとはここでは商業施設が並んでいる今の坂道と、たくさんの西洋館(異人館)が建っていた昔の坂道を歩くことになるのです。
 現実の神戸と幻想の神戸。
 そして、特筆すべきは、その双方がいっそう美しい姿へと現在進行形で変化を続けているということです。

  
 戸田さんの個展の表題作品「六月の夜の神戸の空」は、そのような幻想の中で成長している神戸の壮麗な景色です。
 空には鎌のような大きな月がかかっています。
 月の下は深い影に包まれた六甲連山の一角です。
 そしてその山の斜面には、今まさに夜へ包まれようとして、たくさんの西洋館が建ち並んでいるのです。
 いくつもの尖塔が月へ向かって歌うように伸びてます。

 今わたしたちがしばしばたたずんでいる山裾の高台からかつての神戸港へまっすぐに出ていくような、そのような時間を超えた美しい坂も出てきます。
 神戸の中心部を山から海へ急な勾配で一気に下るトアロードの景色です。
 スエズ以東で最も美しいホテルといわれた「トアホテル」が建っていた坂道です。
 稲垣足穂(いながき・たるほ)があの不思議な小説「星を売る店」を幻視した坂道です。
 西東三鬼が戦時下を過ごした「国際ホテル」(実はトア・アパートメント・ホテル)、あの抱腹絶倒のホテルがあった坂道です。

 それらはむろん、巨大なコンテナ船が入ってくる今の神戸、西洋館が観光装置に変身した今の神戸、ハイセンスな老舗の店が多く絶えてしまった今の神戸にはないものです。
 しかし、だからといって、どこにもないというわけではないのです。
 ひとびとの心のなかにありありとあるのです。
 むしろ、火の中に消えたときからいっそういきいきと生を得て、新しい進化を続けているのです。
 おそらくもとあった神戸よりもっと美しい第二の神戸が、現実の神戸と並行して、形成されているのです。

 戸田さんはその幻想神戸の司祭です。
 わたしたちの中で潜在的に進行している神戸の奇跡に、目の覚めるような色と形を与えます。
 わたしたちを、わたしたちの心の底と出合わせます。

 戸田さんのこの個展は、もう一つの神戸がこの都市の奥に厳然と存在する、そのみごとな証しにほかなりません。

 ギャラリーロイユは http://g-loeil.com/ 

命の根源へ下りていく―犬童徹展

2012-06-03 20:22:00 | 美術
 犬童徹(いんどう・とおる)さんの展覧会を神戸・王子動物園前の原田の森ギャラリーで見てきました。
 70歳を迎えたのを機に50年に及ぶこれまでの画業を振り返る自選展です。
 100号を超える大作がいくつも並ぶ分厚い展覧会になりました。

 犬童さんは一貫して馬をモチーフに描いてきた作家です。
 馬の力強さ、優しさ、繊細さ、ときには痛々しさが重厚なタッチで描かれます。
 そしてそれは、たんに馬そのものの豊かな様態にとどまらず、世界の深部の表現へ、さらには宇宙の奥の表現へと進みます。
 幾つかはこれまでの個展ですでに見ていたものでしたが、初めて出合った絵の中では「月の道」という作品に心を惹(ひ)かれました。
 40代に制作したもの、ということでした。

 何頭もの馬が二列に分かれて、右と左から向き合う格好で並んでいます。
 二列の馬の間が、ひとすじの道のように開いています。
 そのひとすじの道の向こうに、ぽっかりと満月が出ています。
 とても静かな絵なのです。
 馬たちは物思いにふけっている表情です。

 思い出したのは、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の最後の場面のことでした。
 熊たちが月の下で輪になって座っていて、その輪の中心には、ひとつの遺体がありました。
 たくさんの熊を殺してそしてついに自分が熊に殺されることになった、そういう老いた猟師の遺体です。
 熊たちは物思いにふけっているふぜいです。 
 でもそれは、復讐を遂げた感慨ではありません。
 そこにあるのは、たぶん深い共感です。

 死んだ猟師の顔も熊と同じように穏やかです。

 「月の道」と「なめとこ山の熊」に共通しているのは、その静けさと穏やかさと物思いの深さです。 
 それから、核心の部分はついに言葉にはできないだろうと、そのように直観しているこのぼくらの、むしろ安らかな絶望です。
 おそらくそれは、言葉にしてはならないものが言葉にされずに守られた、その美しい作法への安堵(あんど)です。

 現代の生命科学の世界では、命は粘土から生まれてきたいうのが、かなり有力な仮説だそうです。
 粘土の小さな結晶が、さまざまな炭素の化合物を吸収し、貯め込んで、その炭素化合物の助けを借りながら、粘土の結晶の増殖そして再生を始めたというのが、命の最初の形だったというのです。

 するとまもなく、炭素同士が粘土をとばして自分たちで結び付き、増殖と再生に乗り出して、現在の生命の原型をつくりあげたというわけです。
 炭素が粘土を乗っ取って、今見るような命の形が出来上がってきたという仮説です。
 
 ここでとても心を打たれるのは、ぼくたちの生命の原型が、どうやら粘土の上に描かれた炭素化合物と炭素化合物との見えない関係(ネットワーク)、もう少し突っ込んで言うならば炭素化合物たちの間に張り渡されることになった不可視の関係(ネットワーク)、つまり無機物と無機物との間に生まれた「抽象的な関係」がもとになっているらしいという、そのことです。
 まるであぶり出しに現われる絵のように、「生命」と呼ばれることになる「抽象的な関係」が無機物というモノの上に浮き上がってきたわけです。

 なぜ急にこんな生命起源の話に移ったかといいますと、犬童さんの馬のビジョンも宮沢賢治の熊と人のビジョンも、その「抽象的な関係」と深くつながっているように思えるからです。
 モノとモノの具体的な関係に還元できてしまうなら、話はずっと簡単です。
 けれど、ここに現われるのは、モノとモノの隙間にできる、余りのような世界です。

 しかし、実はその余りの部分に、生きているというこのことの基盤があるのではないか、とそんなふうには思えませんか。
 鼓動しているものは、実はみえないところに基盤がある、と。

 そうだとすると、現代のぼくたちは世界を逆立ちした形で見ているのではないか。
 そんなふうに考えさせられた絵なのでした。 

臓器、臓器、また臓器―兵庫県美のアール・ブリュット展

2012-03-10 19:28:00 | 美術
 美術の世界では、アール・ブリュット(生の芸術)の風がますます強く吹いている気配です。
 アール・ブリュットというのは、普通に言われる芸術家たちのテリトリー(領分)とは全く違ったところから現われた、新しいタイプの一群の作品です。
 なかでも知的障害を持ちながら(むしろ、持っているがゆえに)特異なビジョンを描き出す作家たちの活動がしばしば話題にのぼります。
 そのアール・ブリュットの二人の巨匠、ルボシュ・プルニー(1961生まれ、チェコ)とアンナ・ゼマーンコヴァー(1908―1986、チェコ)の展覧会が神戸の兵庫県立美術館で開かれています。
 題して「解剖と変容」。
 見てきました。

 プルニーの絵、そこにあるのは、肉体、肉体、また肉体、です。
 むしろ、臓器、臓器、また臓器、といったほうがイメージを描きやすいかもしれません。
 人体解剖に強い関心を持ち続けている作家です。
 さまざまな器官が、あるときはそれとはっきりわかる形で、あるときは大胆にデフォルメされて、いたるところに現われます。
 正直いって、ぼくの体にはこれを美しいと感じる感覚はあまりはっきりとはありません。
 しかし、これらの絵の前をそしらぬ顔では通れない不穏な気分がゴボリと頭をもたげます。
 現代は人間をこんなふうに見ている、という21世紀的な人間観がたぶんそこにあらわれているからです。

 じっさい、ぼくたちが生きているこの世紀は「臓器の時代」と、そう言ってもいいようです。
 臓器の移植、臓器の再生、臓器の売買…。
 かつて生きるということは、身体と名付けられたある領域の、いささか漠然とはしているけれど全体の問題でした。
 いっそう運命とか宿命とか必然とか偶然とか、いっそう漠然とした状況にかかわる問題でもありました。
 しかしいまは、肝臓の問題であったり、肺臓の問題であったり、心臓の問題であったり、つまり個別の臓器の問題です。
 人間の生命は、衰弱した臓器や傷ついた臓器をどう修復し、どう長持ちさせるか、そういう問題に縮められているのです。
 つまり、人間はいまや臓器の集合体にほかなりません。

 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは20世紀の後半にいちはやくそうした器官偏重の人間観を批判して、器官を乗り超える人間観、つまり「器官なき身体」という考え方打ち出しました(1980年、ガタリとの共著「ミル・プラトー」)。
 人間は器官の集積、あるいはそれへの執着を超えた、もっと大きな、もっとダイナミックな、もっと流動的な場だという考えです。

 「器官なき身体」というビジョンは、もともと統合失調の因子をもっていた20世紀の大天才、詩人で小説家で演劇家で俳優のアントナン・アルトー(1896―1948)の発想ですが、この脱―臓器型の人間観を一方の極に置くなら、今展のプルニーの作品はその対極の、まさに臓器だらけのビジョンということができるでしょう。
 21世紀を生きているぼくたちの自画像がそこに写し取られているのです。
 プルニーな作品一点一点は、ぼくらを透写する鏡です。

 他方、ゼマーンコヴァーの絵は、みたところ植物がモチーフです。
 茎があり葉があり花があり実がありますから、まず草木の形が見えますが、しかしその形態は、しばしば丸く、厚く、むしろ環形動物を連想させるような肉感をもっていて、うごめきそうでさえあります。 
 動物化された植物、というよりも、内部で動物の遺伝子と植物の遺伝子の部分的な交換があったようです。
 それは危険な交配ではなかったでしょうか。
 葉やツルや花があまりに過剰に進化した異形の草木は、生の継続を予感させるというよりも、むしろそこでの最終的な完成、つまり死を予告しているように見えるのです。
 これもまた、ぼくらが生きるこの時代の、豪華な自画像なのかもしれません。

 二人の作家の奇妙な共通点に、ボディブローのような衝撃を受けました。
 プルニーは「父」と「母」という一対の作品で、それぞれ父親と母親の遺骨灰をガラス器に封印して、画面の中央に仕込んでいます。
 ゼマーンコヴァーは、四歳で病死した長男の遺骨灰を壺に入れ、一生それをそばから離さずに暮らしたようです。
 プルニーは父母から過剰なまでの教育を受け(不自然なほどの関心を注がれ続け)、どうやらそれが自立の時期を難しくさせたようです。
 ゼマーンコヴァーは逆に厳格な母となって、子供に完全な従順さを求めたようです。

 先のドゥルーズは、親と子の間に精神分析的(フロイト的)な闇を覗くことに強い批判を書いていますが(「アンチ・オイディプス」)、この二人の画家を見るかぎり、ドゥルーズの楽天的な主張に反して、その闇はずいぶん深いように思えます。


神戸を縦断していくSLの麗姿―中山岩太展

2010-05-19 16:42:00 | 美術
 HAT神戸の兵庫県立美術館で、写真家・中山岩太の展覧会が開かれています。
 中山岩太というのは20世紀の初めに生まれて、写真家としてニューヨークとパリで経験を積み、帰国後は芦屋、神戸など阪神間をベースに、モダンな写真を全国に発信し続けたひとです。

 今回の展覧会は、二つの目的のために開かれています。
 ひとつは、中山岩太というひとがどのような写真家だったか、その全体像をたくさんの作品を通して見ることです。
 そしてもうひとつは、中山が神戸の街を撮った作品を特別に集めて、当時のモダンな都市風景を再現して見せることです。
 そのころの神戸の風景はもう90%以上がその後の戦争で燃えてしまって、今は山手の異人館街や海岸部の旧外国人居留地にわずかに面影があるだけですが、それこそ永遠のモダンボーイともいうべき映画評論家にしてのサヨナラおじさんの淀川長治やヒコーキ野郎にして夢想家・小説家の稲垣足穂らをはぐくんだ稀有(けう)な土壌だったのです。
 とりわけ神戸で生きるひとびとには、みずからのアイデンティティを考え、そして楽しむための必見の企画でしょう。

 中山の仕事については本ブログの姉妹ページ「Splitterecho(シュプリッターエコー)」Web版に少し踏み込んで書いていますので、気が向けばご訪問いただきたいと思いますが、そこに書けなかったことでぜひ紹介しておきたいのが、当時の神戸を蒸気機関車の進行に沿って撮影した珍しい映像です。
 SLが須磨駅から神戸駅をへて灘駅へシュッポ、シュッポと走っていく、その間に高架線から見える街並みを刻々16ミリフィルムに収めているのです。

 撮影者は枡田和三郎というかたで、こういうひとが市民のなかにいるのも神戸らしいところでしょうが、アマチュアの映像マニアのひとのようです。
 沿線はもう圧倒的に民家、民家の屋根ですが、モダン寺があの異様な姿でいきなりニョキッと出てくるところなど、今の風景に重なります。
 路面電車(市電)が縦横に走っているところは、オールド・コウベをなつかしむものには格別です。
 SLファンにもまた、高架鉄道を疾駆していく貴婦人の黒い麗姿はたまらない光景ではないでしょうか。

 兵庫県立美術館は http://www.artm.pref.hyogo.jp/