Philly Soul #4

2005年12月22日 | soul,r&b
前回は独立宣言に終始してしまったので、今回はまじめにPhilly Soulについて語っちゃいますよ!

========MOTOWNからPhillyへ========
PIR以外のアーティストでは以前The Stylisticsを紹介したが、もう一つ重要なVocal Groupがある。Spinnersである。UKには同名のグループがあるためDetroit Spinnersと呼ばれていた。そう、彼らはMOTOWN出身であったのだ。MOTOWN時代はIt's A Shameと言うヒット曲を飛ばしていたが、それ以外の目立ったヒットもなかった。しかしPhillyにレコーディングしにきた途端開花した。Atlanticに移籍しPhilly制作(Thom Bell等による)になってからは大ヒットの連発であった。'72年にI'll Be Around、Could It Be I'm falling In Loveの2曲をR&B#1/Pop10位以内におくりこみ、How Could I Let You Get AwayもR&B#1といきなり#1ヒットの連発の快進撃で、'74年にはDionne Warwickとのコラボレーションで全米#1を獲得!Soulに留まらずPopスターとしての地位を確固たるものとする。Atlantic時代はR&B Top 5=13曲、うち6曲が#1、全米Top 5=7曲ともっとも成功したSoul Vocal Groupとして君臨した。

実は私もI'll Be AroundやCould It BE~などはよくライヴで歌う曲だ。とにかくT.Bellらが作るメロディーがPopで解りやすいこと、Phillipe Wynne(この人のMixed Voiceは素晴らしい!)と言う強力なリードシンガーを加えて、リーダーであり個性の違うBobby SmithとWリードで進めて行ったのも功を奏する要因であったように思われる。しかしPhillipeは'77年にソロ活動するためにグループを離れてしまう。グループの危機かと思われたが、今度は南部出身でソロアルバムも二枚程出しているJohn Edwardsが加入する。彼のスタイルはもろSam Cookeの影響を感じさせるエモーショナルななタイプ、ハイトーンヴォイスが売りだ。私はSam Cookeフリークなのですぐに気に入ってしまい、ソロ時代の2枚のアルバムも手に入れ、しまいにはシングルのみ発売のVanishing Love(当然US盤)も手に入れてしまいました。

その後のPhillipeはというと、三枚のアルバムを出すが目立った成功もなかった。ただ。P-Funk関連のレコーディングに参加、有名なのはFunkadelic/Knee Deepでリードを取って作詞曲に名前を連ねていることだ。ちなみにWynne Jammin'というアルバムではP-Funkの総帥George Clintonのプロデュースで、その関連ミュージシャン達がバックアップしている。SpinnersとP-funk?全く関連性が無さそうに思われるだろうが、P-funkの本拠地であるDetroit出身であるPhillipeは若い頃Bootsy Collinsとバンドをやっていたり、元々交流があったようだ。その後'84年に43歳の若さで亡くなってしまう。 
そのままSpinnersに残っていたら、などと思うのは野暮であろう。もしかしたらDetroitに戻りたかったかもしれない、昔の仲間と一緒にやりたかったのかもしれない。Spinners時代の方が遥かに彼の魅力が出ていたから、本当に残念であるが...

その後のSpinnersはDiscoサウンドの波に押しやられた格好で80'sに入るとDiscoを意識したサウンドに移行して行く。当然のごとくVocal Groupとしての魅力は半減していく。ヒットチャートからもだんだん遠ざかっていくことになってしまう。
もちろん、他のグループも衰退していき、PIRはついには倒産してしまう。

次回はPhilly Soul#5、最終章の予定です。そのあとはFunkについて語っててみたい。これはCoreになりそうだ!

70's Philly Soul#2

2005年12月18日 | soul,r&b
========Philly Soulって何だ?========
Philly Soulを一言で表現するとSweet、美しいストリングスと甘~いファルセットヴォイスと言うようなイメージであろう。ファルセットヴォイスを世に認識させたと言っても過言ではない、The StylisticsがYou Are Everything/Becha By Golly Wow/Stop,Look,Listen等をヒットさせたのは'72~'73年である。この頃は前回登場したThom Bellが作曲、制作に関わっていた。言うなればPost The Delfonics的な存在であった。彼らはPhilladelphia International(PIR)所属ではなかったが確実にPhillyを代表するArtistであった。それ以前のファルセットと言えばPhillyの夜明けThe Delfonics(William Heart)、その遥かに前のThe Platters、MOTOWNのSmokey Robinson& The Miracles(Smokey)、ChicagoのThe Dells(Johnnie Carter)等があった。
さてPhillyのメインレーベル、PIRはといえば私がDetroitのThe Dramaticsと並び大好きなThe O'Jays!彼らがPIRでのデヴューシングル、Backstabbers(裏切り者のテーマ)'72年に大ヒットさせ、幸先の良いスタートを切る。さらに'73年にはLove TrainをR&Bチャート1位に送り込み、PIRのドル箱として揺るぎない存在となり、R&BチャートNo.1を6曲、トップ10を12曲も送り込むPhilly1のVocal Groupとして君臨する。私がこのThe O'Jaysが大好きなのはリードシンガーのEddie Levertの存在である。先ほど登場したThe DramaticsのL.J.Reynolds(USAのタバコメーカーはR.J.Reynolds)と双璧をなすFavorite Singerである。このThe O'Jaysにはもう一人Walter Williamsと言うリードシンガーがいて、彼はEddieに比べしわがれ声でそれ程スムーズでないファルセットを使う。歌い回しもちょいとぎこちないところが、完璧な唱法であるであるEddieと個性が別れ、いい味を醸し出しているところも魅力である。ちなみに前出のBack Stabbers/Love TrainそしてLet Me Make Love To You等は吉田がよくライヴで歌う曲でもある。
PIRと言えば日本でも”Phillyの恋人”と呼ばれ、何度も来日、当時あった東京音楽祭でグランプリを取ったThe Three Degreesを無視する事は出来ないだろう。実は彼女達は日本で紹介される前にUSAではかなりのヒットを飛ばしていた。Roulette時代の”Maybe”はR&Bチャート4位までヒットさせ、その後のシングル"I Do Take You"は7位まで上るヒットであった。その後PIRに移籍し、When Will You See You Againを全米2位まで上るヒットを飛ばし、日本でもその認識を確固たるものにする。
彼女達にはGospelで鍛えたしっかりした歌唱力があったが、日本では何と言ってもそのSexyな衣装が当時の野郎共の下半身にアピールした。PIRのハウスバンドであったMFSBとのコラボレイションであるSOUL TRAINのテーマ(TSOP)は全米No.1に上る大ヒットになる。SOUL TRAINってのは当時の吉田の教科書みたいな物であったのだから本当に忘れられない曲であった。日本での人気を象徴するのは、日本制作のシングルである”にがい涙”であろう。作曲/筒美京平、70年代の野郎共のハートはThe Three Degreesの虜であった。正直本国USAの人気よりもU.K.や日本のほうが人気が高かったのは、アイドル的な売り出し方が功を奏したと同時に、実力至上主義なUSAでは今ひとつ長い成功に繋がらなかった理由ではないだろうか?

次回はPhilly Soul#3をお送りします。皆さん意見や質問を書き込みして下さいね!

60'SのMOTOWN Sound~70'SのPhilly Sound #1

2005年12月16日 | soul,r&b
=========MOTOWNとJames Jamerson========
前回はPhilly Soulの重要性について触れたが、それが開花する以前のモンスターレーベル、MOTOWNを無視して進めることはできないであろう。
昨年、永遠のMOTOWNという映画が公開され、謎であったMOTOWNの裏側の一部が明らかになった。その中でBassistのJames Jamersonは別格に扱われていたのはこの映画を見た人ならよくわかると思う。非常に破天荒な人であったようだ。他のMOTOWNのPlayerはこの映画で紹介されるまで本当に無名だった。その中でJamersonは知る人ぞ知る、One&Onlyな存在であった。何しろMotown全盛期であった60'sにはLPにMusicianのクレジットさえ無かった時代であるが、彼の没後ほとんど彼が弾いていた事が明かされる。少なくともMarvin Gayeの最高傑作What's Going Onにクレジットされていて、'74に出したLiveアルバムでも弾いていたのは私も知っていたが...
'83にアルコール中毒が彼の生命を縮めることになり、最後は悲惨な死をとげたらしい。一般的にSingerやArtistなら良くある話であるが、彼の場合一介のBassistでしかなかったにも関わらず伝説になった稀な存在である。それはいかにMOTOWNと言う存在が大きかったかと同時に、そのGrooveはUSA国内のみならず世界のリスナーに愛されたということであろう。さらにその後に出現するSuper Bassist達に多大な影響を与えた事である。
すっかりJames Jamersonの話に終始してしまったがMOTOWNと言えばBERRY GORDY(創始者/Producer/Songwriter)である。彼とMOTOWNについてはまた改めて話そう。

========Soulと地域性========
60's~70'sのSoul musicは非常に地域性が強かった。MOTOWNは北部Detroit、Phillyは東部Philladelphia、StaxやHiは南部Memphis、L.A.は西部Los Angels、Bay Ariaは西部SanfranciscoとOakland等、それぞれの独特なサウンドを発信していた。Rockはバンドサウンドであるので地域性と言うよりはそれぞれのバンド単位で個性を出している。(中には地域性を打ち出した物もあるが...)それに対しSoulはそれぞれのレーベルごとにバックのミュージシャンやアレンジャーを雇いレコーディングしていた。当然のごとくアーティストは違えどサウンドは似通ったものになるわけだ。そんなわけで地域によって個性的なサウンドが生まれていったわけだ。最近はコンピューターでの打ち込みが主流になったせいかそれはかなり希薄になって来ている...

========Philly Soulの誕生とその背景======== 
USA東部のPhilladelphiaでは70'sに60'sのMOTOWNに匹敵するレーベル、Philladelphia Internationalが誕生した。やはり数々のヒット曲、アーティストを輩出する事になる。MOTOWNのBerry Gordyのような存在は、Kenny Gamble、Leon Huff、Thom Bellということになるだろう。どの音楽雑誌で読んだかは定かでないが、Kenny GambleがインタビューでMOTOWNから多大な影響を受けたことを認めていたことを覚えている。確かに彼らのPhilly Inter以前のサウンドを聞くとよく解る。これはGamble&HuffがPhilly Inter設立前にやっていた会社、NeptuneでのThe O'jaysのOne Night Affairを聞くとそれが顕著に解る。さてThom Bellはと言うと、68年にThe Delfonics/LaLa Means I Love YouというR&Bチャート#2に送り込む大ヒットを飛ばすことになる。この曲はその後のPhilly Soundの基盤となった、ストリングス+ファルセットヴォイスと言う図式を確立、Philly Soulの夜明けとも言われているほどの存在だ。

次回は本格的にPhilly Soundについて語ることにしよう。今後はSoul歌唱法/発声についても織り交ぜて書いていきますよ。
                                                  お楽しみに!

Soul Musicと日本人、そしてAfrican-American

2005年12月14日 | soul,r&b
吉田がSoul Musicに入門したのは以前も書いた通り中3の冬休み、つまり1976年の冬である。最初に聞いたのはK.C.&The Sunshine Band/Sound Your Funky Horn、最初に買ったLPはThe Stylistics/Thank You Baby、最初に買ったEPはさすがに覚えてないな。
当時はSoul=Disco Soundと言える程Discoが流行っていた'75年~'76年はKANG-FU/HUSTLE/BUS STOP等のステップが大全盛!。商業的に'77年あたりからEuro(Munchen/ドイツが中心)Discoがどんどん進出してくる。みんなが知っているABBAやDonna Summer(アメリカ人だがドイツで成功)、ジンギスカン、ソウルドラキュラ、Disco Fever、怪僧ラスプーチン等のEuro Discoがヒットチャートを賑わして、さらに日本ではSexy Bus Stop/ソウルお富さん/ソウルこれっきりですか?(山口百恵のヒット曲のカバー)なども登場し、かなりヒットした覚えがある。本国USAではThe StylisticsやThe Blue Magic等のBallad系Vocal GroupもDisco Soundを意識したサウンドに移行せざろう得ないことになる。このあたりからPhilly Soulの衰退が始まり、そのバックのオーケストラであったMFSBの主要メンバーを新興のSalsoulレーベル(多数のDisco Hitを輩出)に引き抜かれ、ついには倒産してしまう。
元々50'sのR&B=Rhythm&Bluesと呼ばれてた時代から黒人音楽はDance Musicであった。これはそのRootsがAfricaにあることに起源していることで容易に解るであろう。BluesやJazzはもともとDance Musicでもあったりする、そしてSwing Jazzは白人たちが踊るためにあったものである。要は30's~50'sのAmerican Musicは確実に白人の為にあった音楽である。50'sに入ると黒人達は白人に真似できないようなRhythmや新しい理論でJazzを表現して行く、それがBe-Bop、さらにHard-Bop/Funky/cool等と進化して行くのであった。

黒人文化はどんどん進化していく、特にAfrican-Americanのそれは目を見張るものがある。彼らはきっと最も優れた人種のひとつなのであろう。Africaと言う文化の発展しにくい地域に生まれたのはきっと神のいたずらであろう。事実USAではことスポーツ、音楽の部門では明らかに黒人が引っ張っているのは紛れも無い事実だ。我々日本人が対抗できるとすれば、日本古来の慎ましさ、繊細さであろう。身体能力的には平均的に考えると全く及ばない。同じ土俵ではなかなか勝負にならない。そこに挑戦して結果を残しているのはMBLのICHIROや松井秀喜らであり、さらに狭き門と言われているNBAに挑戦している田臥勇太であろう。175cm(実寸173cm)70kgそこそこの体躯で、平均200cm/100kgを超えるようなNBAに挑戦している。これは本当に凄いことだ!今はNBAの下部組織、D-Leagueにいるが、きっと彼はNBAに戻ってくると私は信じている。
何を言いたいかと言うと、日本人でもSoulを歌えるはずだと言うこと。もちろんUSAで成功するには言葉のハンデがあるが、技術的に考えると全く可能である。言語の特性のハンデは大きいが、決して無理ではないのは確かである。スポーツであろうが音楽であろうときっと我々に出来ないことはないと言うこと。

70's Soulの話に戻るが、当時は音楽の進化の上で最重要な時期であった。Rock’RollはThe BeatlesやElvis PresleyらによってRockと言うジャンルが形成され、それは70'sに完成されて行く。R&BはSam Cooke,Liittle Richard,Otis Redding,Ray CharlesそしてMotown SoundなどによってSoul Musicの基盤が作り上げられて行った。そのあとに出現する(注目を浴びる)Stevie Wonder,Marvin Gaye,Curtis Mayfeild,Donny Hathaway、そしてPhilly Soundは70's Soulを語る上で絶対外せないポイントである。

次回はもっと掘り下げて語っていくことにするね。みんなこれを見て何か意見や質問があったら是非書き込んで下さい、よろしく!

どこまでもSoulな私

2005年12月11日 | Weblog
さて、前回までは吉田の自伝に終始してしまったので今回は大まじめにSoulを語ってみよう。
Soulの定義について述べると人それぞれの解釈があると思う。きっと最近のR&Bブームで黒人音楽に入った人たちはSoulとR&Bを別な音楽ジャンルとして考える輩が多いと思われる。まあジャンル分けする事自体無意味といえば無意味であるが人それぞれに好きな音楽の傾向がある。これは音楽に対する求心力が高ければ高い程分けて考えたくなるのは当然の事である。

しかし実はR&Bとは60'S以前の呼び方である。つまりR&BのおじいちゃんはR&B、親はSoulであるのだ。70'sにSoulと呼ばれる前はR&Bと呼ばれ、80's中期にはBlack Contemporary、またR&Bと呼ばれる前はBlackと呼ばれたりした。
吉田は最近の黒人音楽をR&Bと呼ばれるのにかなり抵抗があった。ブラコン、ブラックと呼び名は変わっても結局はSoulとかたづけられたものが、なぜ60's以前の呼び方になる訳?
要は60年代末期にAfrican-Americanが市民権を得た奴隷時代から引きずっていたコンプレックスからの解放、自信の意味であるSoulという言葉が失われたように感じて悲しくなった。これは吉田が聞き始めた時既にSoulと呼ばれていた訳で、単純に言えば懐古主義?と言われればそれまで。しかしSoulと言う言葉の響きには特別な感情があるのだ!
そう、流れ的にはSoulとR&Bは全く同じ遺伝子を持ったものであるのだ。それはもしかして50'sの音楽をOldiesと呼ぶのと一緒なのかも知れない。

吉田はSoulで育って、それを歌い続け、最近のR&Bを歌い、教え、そしてGospelを歌い、時にはRock,Popsも歌わされた。しかし何を歌おうが吉田が吉田英樹である限りSoulなのである。妙な気負いが無くなったら音楽がさらに楽しくなったよ。

こだわりは時には損をするが、人生を謳歌するには本当に大切な物である。みんなもこだわりを持って生きて行こう!吉田英樹、少し大人になりました。

次回はさらにSoulと吉田英樹を語って行くよ、よろしく!

Soul/R&B Singer吉田英樹の音楽との出逢い#2

2005年12月05日 | soul,r&b
第2弾でござる!
前回は触れなかったが吉田の身長は167.6cmぐらいだが、中一から高一までバスケ部だった。当然のごとくGuard positionであったが中学校時代はBench playerだった。当時のチームは結構強くて身長の小さい吉田はなかなか試合にも出して貰えない補欠であったのだ。確かにチビでひ弱ではあったが、大きな面子から見ると基礎的なPlayには自信があったんだけど...
持久力にも自信があった。校内のマラソン大会では120人中、一年の時4位、二年の時3位、三年の時4位と好成績を残した。
そのおかげで陸上の地区大会にかり出されたり、駅伝大会に選出されたりした。しかしバスケでは非常に評価が低かったのは吉田のとってかなりの屈辱であった。当時は結構いじけ虫であったな。
親父は当時中学の英語教師で卓球部の顧問、姉貴は親父の意志を次いで卓球をやっていた。道大会常連になるほどの実力があった。吉田はそのプレッシャーがあったので卓球の道は選ばなかったのだ。人に遅れをとって挑戦することに臆病だった、これは今もそれ程変わっていない。
バスケの道はその後高校入学時に中学時代の先輩に勧められて入部することになる。中学時代に比べそこは弱小チームであった。部員も10人程度、つまりベンチ入りできる数に満たなかった。そのせいもあり一年時は結構試合には出して貰っていた。スチールを決めて主将に誉められてデイフェンスに自信を持ってプレイするようになった。自分の出来ることを見つけたのは本当に自信になったね!三年生が引退した後の新人戦では新主将に次ぐ得点源にもなった。とはいってもその主将のワンマンチームであったため一試合12点が最高ポイントだったな。主将は20点以上あげる当時のチームにはもったいない存在だった。
しかしその主将と意見が合わず二年生になる前に退部してしまう。今考えると追い出されるかたちだったが、吉田の姿勢自体甘かったと反省している。どちらにしろ主将に求心力が足りなったとも言えるが..
当時は既にSoul musicにはまっていたので、その後はさらに没頭していく事になる。

当時は70年代、70,sRockが全盛!友達は皆Rockバンドをやっていた。親しかったのはKISSのコピーバンドをやっていた川崎裕也、当時は同級生のなかでは破格にうまいGuitaristだった。しかし奴らにはSoulの良さも解るはずもなくみんなに変な奴といわれ続けていたな。高二になると同級生の女子にバンドに誘われることになる。何と担当は経験のあるGuitarではなくDrumsである。何とバンドデビューはDrumsだったんだよ!ド素人で基礎も何も無い吉田を誘ったのは単純に音楽性の一致のみだと思う。ああ恥ずかしい!高校生以降これを知っている人はほとんどいない。こりゃまじComing outって感じだな...

さて、今でもよーく覚えているのが高一のお年玉で買ったLP、EW&F/SPIRIT、Stevie Wonder/Songs In The Key Of Life、Jimi Hendrix/Clush Landingだ。どれも吉田にとっては名盤中の名盤!ジミヘンのアルバムは亡くなった後に編集されて出た物であるが、その中でも本当に良く出来た内容である。Rock Guitaristとして神様扱いされている彼であるが、吉田にとってはFunk Guitarist&Artistとして認識されている。一度は聞いてみて!損はしないよ。
#3に続く...