高野山
2016-10-31 | 日記
に行ってきた。
調草子 Kaori-neのツアーから戻る日に。
関西へは多数のグループのツアーでよく行くようになった。
関西方面は特に歴史が賑やかなので見どころは満載である。
よく行くようになって、時々は観光らしき事もできるが、
基本グループ行動なので自分の欲求のまま動く事はできない。
だからせっかく近くまで(日本と言う大きなくくりをもとに....)来ているのに行かれずに帰る事の方が多い。
私は熱心な仏教徒というわけではないが、神社仏閣をぶらぶら見るのはワリと好きな方である。
これは父親の好みに似たのかもしれない。
が、信仰そのものより、それを信仰している人々の顔や想いの方に興味がある。
諏訪神社の総本山である諏訪大社のある諏訪で生活した子供の頃の記憶が、
総本山という言葉の響きに反応する。
真言密教の総本山、高野山真言宗金剛峯寺。
和歌山にあるこの高野山の近くを何回通った事か。
山全体が信仰の対象であるようなこの場所にやっと行く事ができた。
し、か、し、
行ってみたいと思っていただけで、なにも知らずに訪れた私はその場所の広さに驚き、
ツアーのついでに帰りにふらりと寄るようなところでなかった事を実感するのであった^o^; 。
ま、でも一度その場に身を置けたので、次に行くときがまた楽しみであります。
仏教の教えを知っているわけではないが、
三法印の中の、諸行無常、は言葉として知っていて、
ほら、レイのあれですよ、祇園精舎....^_^; 。
とくにこの言葉には平家物語ではなくとも、なにか惹かれるものがある。
私自身に絶望が覆うような実体験はないが、
物事には変わらないものがない、という私のざっくりとした理解力でも、
自然や世の中や人の動きの事象を符合させる事ができる。
だから人はきっと安心を求め、不変の愛や人らしさを求めていくのだろう、
と、勝手に解釈している。
人の行言動力の源は、良い悪い含め煩悩で、
これにより良い事も悪い事もおこるが、悪い事の方が圧倒的に多く影響力が強い。
だからこれを諌め、良い事を、思いやりとか慈悲とか愛とか無償のとか言葉を変え、
人として良い感じになろうとするのだろう、
と、勝手に解釈している。
自分の中にはいろんな煩悩があって、
もっとシンプルに生きれれば良いのに、
という煩悩もまたはびこる。
結局、自分の思うように生きていけば良いのだが、
なかなかそれが思うようにならず、そんな人々の心の負荷を少しでも安らげるために、
その苦しみを一手に引き受けてくれる人が現れるのだが、
それもまたその人の煩悩力がなせる事である。
人の事などほっとけばいいのにほっとけない煩悩である。
ま、こんなへそ曲がりな考えをするのも煩悩がなせる技。
しょうがないな〜、と思って思うようにやっていくしかないのだろうな。
と、心の煩悩がしゃべっている。
宗教問わず、総本山の場に見を置くと、
心が洗われ落ち着くどころか、自分が心身ともにガラス張りになり恥ずかしい思いにかられる。
これが、私にとって、信仰の場に行くという理由なのだろう。
恥ずかしい、とうことはつまり、
体裁が悪い事をしていたり、くだらない事にこだわっていたりする事の現れなのだから。
と、かっこうよく決めた(と自分では思っている...)煩悩が愛おしい。
Masa...
ps..つぶやいていてふと思った。外国にはこの諸行無常の感覚はあるのだろうか。
意味は違うかもしれないが、ジョビンの「Inútil paisagem」ってとこ?^_^;
調草子 Kaori-neのツアーから戻る日に。
関西へは多数のグループのツアーでよく行くようになった。
関西方面は特に歴史が賑やかなので見どころは満載である。
よく行くようになって、時々は観光らしき事もできるが、
基本グループ行動なので自分の欲求のまま動く事はできない。
だからせっかく近くまで(日本と言う大きなくくりをもとに....)来ているのに行かれずに帰る事の方が多い。
私は熱心な仏教徒というわけではないが、神社仏閣をぶらぶら見るのはワリと好きな方である。
これは父親の好みに似たのかもしれない。
が、信仰そのものより、それを信仰している人々の顔や想いの方に興味がある。
諏訪神社の総本山である諏訪大社のある諏訪で生活した子供の頃の記憶が、
総本山という言葉の響きに反応する。
真言密教の総本山、高野山真言宗金剛峯寺。
和歌山にあるこの高野山の近くを何回通った事か。
山全体が信仰の対象であるようなこの場所にやっと行く事ができた。
し、か、し、
行ってみたいと思っていただけで、なにも知らずに訪れた私はその場所の広さに驚き、
ツアーのついでに帰りにふらりと寄るようなところでなかった事を実感するのであった^o^; 。
ま、でも一度その場に身を置けたので、次に行くときがまた楽しみであります。
仏教の教えを知っているわけではないが、
三法印の中の、諸行無常、は言葉として知っていて、
ほら、レイのあれですよ、祇園精舎....^_^; 。
とくにこの言葉には平家物語ではなくとも、なにか惹かれるものがある。
私自身に絶望が覆うような実体験はないが、
物事には変わらないものがない、という私のざっくりとした理解力でも、
自然や世の中や人の動きの事象を符合させる事ができる。
だから人はきっと安心を求め、不変の愛や人らしさを求めていくのだろう、
と、勝手に解釈している。
人の行言動力の源は、良い悪い含め煩悩で、
これにより良い事も悪い事もおこるが、悪い事の方が圧倒的に多く影響力が強い。
だからこれを諌め、良い事を、思いやりとか慈悲とか愛とか無償のとか言葉を変え、
人として良い感じになろうとするのだろう、
と、勝手に解釈している。
自分の中にはいろんな煩悩があって、
もっとシンプルに生きれれば良いのに、
という煩悩もまたはびこる。
結局、自分の思うように生きていけば良いのだが、
なかなかそれが思うようにならず、そんな人々の心の負荷を少しでも安らげるために、
その苦しみを一手に引き受けてくれる人が現れるのだが、
それもまたその人の煩悩力がなせる事である。
人の事などほっとけばいいのにほっとけない煩悩である。
ま、こんなへそ曲がりな考えをするのも煩悩がなせる技。
しょうがないな〜、と思って思うようにやっていくしかないのだろうな。
と、心の煩悩がしゃべっている。
宗教問わず、総本山の場に見を置くと、
心が洗われ落ち着くどころか、自分が心身ともにガラス張りになり恥ずかしい思いにかられる。
これが、私にとって、信仰の場に行くという理由なのだろう。
恥ずかしい、とうことはつまり、
体裁が悪い事をしていたり、くだらない事にこだわっていたりする事の現れなのだから。
と、かっこうよく決めた(と自分では思っている...)煩悩が愛おしい。
Masa...
ps..つぶやいていてふと思った。外国にはこの諸行無常の感覚はあるのだろうか。
意味は違うかもしれないが、ジョビンの「Inútil paisagem」ってとこ?^_^;