つぶやき............

パーカッショニストMasa(海沼正利)の『つぶやき...』
不定期でつぶやきます(^o^)。

文章

2016-10-04 | 日記
文にするというのは大事な事かもしれない。

こんなあたしでもそこそこ思うところあります。

いろんな場面で出てきた話や、自分の中に何か思うことがあっても

ほとんどしゃべったり書いたりする事はありません。

大体は自分の中にあるだけですが、

大体は忘れます。

ああ、それでいいのか、

と、いつもは思っています。

そうでないときは、

目に見えるカタチにしておいた方がいいのかな、

とも思ったりしますが、

すぐ忘れます....^o^;

ま、そんなに大事な事じゃないんだな、

と、ながしています。



    Masa....

ps.つまり、何か書きたい事あったが、忘れた、と、、、、^_^; (またか....)




パソコンの向う

2016-10-02 | 日記
もはや日常の中で不可欠になってきたインターネット。

情報収集と情報発信、そしてコミニュケーションツール、趣味、、、

ほか、いろいろとその用途は広がり続ける。

かくいうこの「つぶやき...」もインターネットの中のものだ。

いままで、図書館やレコードショップや、時々TV、そして、現地へ行かなければ知るすべも無い音楽など、

インターネットで知る事ができる。

いままで、チラシくばりやはがきなどのDMでコマーシャルしてきた自分のライブ情報など、

インターネットで全世界へ発信する事ができる。

しばらく合っていなかった旧友と、連絡の取れなかった友達と、

実際には合う事も難しいスターたちと、

インターネットで会話する事ができる。

海外の友達と、リアルタイムで会話する事ができる。

一人で誰にも言えず耐えてきた問題を、

インターネット上に解放し、その苦しみを共有する事ができる。

TVでも新聞でも知りえなかった世界で起きている事をいち早く知る事ができる。

すごい事だ。

いまは、もうそれらができる事が日常なのだ。

だが、ここにもやっぱりいくつもの落とし穴があって、

インターネットが原因でいろんな問題がおきてしまう事もある。

個々人にあった使い道、それができればこれほど便利なものは無い。

インターネットが無かったときは、それらはどうしていたんだっけか。

この「つぶやき...」は、どうやって人の目にはいるのだろう。

電波が届かない時、ふと、そんな事を思う時がある。




    Masa....




日本の芸能

2016-10-01 | 日記
今日は「調草子 Kaori-ne」のライブだった。

日本民謡を我々流にアレンジして演奏するグループだ。

今期は「月映えの夜に」と題した作品を演奏している。

普段は別になんでもないが、

帰宅してからたまたまインターネットでチンドン屋の歴史の投稿を見て日本の文化の事でふと思った事があった。

私は大学に入る時に東京に出てきた。

わたしの住んでいたところでチンドン屋を見たことは無い。

能や歌舞伎や雅楽や民謡の演奏を見たことは無い。

あったのは、親戚が集まった時に(ほとんどがおじさんたちの呑み会の席)、

おじさんたちがそれぞれ好んで歌うものと、

地元のお祭りの時に歌われたり演奏したりするものだ。

その他はTVから聞こえてくるものだけだった。

だから、日本文化というものは(おそらく明治以降のものだろうが)、東京に出てきてから知る事になった。

ということは、私が勉強、研究している各国の音楽とさほど違わない。

私は日本人だけど、日本の芸能も勉強、研究して身につけているものだ。

私にとって日本の音楽文化は都会の文化で、決して身の回りにあるものではなかったし、勉強するものだった。

だからこそ、各国のものと同等のものとして理解していかれるのだろうと思うが.....。

どちらかと言うと西洋の味のついたものの方が身近だった。

だから、西洋のものが全くの異国のもの、という意識もあまり無い。

私にとって、日本のものも外国のものもそうかわらない。

日本人なんだから日本の文化をもっと大事に、と時々きくが、

日本の文化を大事にするためには日本の文化はなんなのか勉強する必要が私にはある。

日本文化を勉強しなければならない日本人の私。

私にとって、勉強しなければ得られないものというのはなんなのだろうか。

もちろん、日本に住んでいるのだから、多少の日本文化は血の中にある(はず....)。

でもそれは、日本文化というよりは、私の住んでいたところ文化。

人それぞれ住んでいる場所によって文化は違うのではないだろうか。

日本は狭い島国といわれるが、土地土地で全く違う魅力的な文化に出会う。

その土地が経てきた歴史がきっと違うからだろう。

結局、国というのは、ワリと無理にまとめた大きいくくりに過ぎないのかもしれない。

日本文化と同じように各国の文化を勉強していくと、同じ気持ちになる事がある。

この村を出ると、全く違う言葉を持った村にたどり着く。

国というのは、そんな多様性を持つ村の集合体なのだなあ。

話を戻すと、僕の中にチンドン屋の文化は全くない。

各国の音楽と同じように興味深く受け入れる芸能の一つなのだ。



   Masa...