スカーレット手帖

機嫌のいい観客

1月の観劇「ノートルダムの鐘」「手紙」(後)

2017-02-10 | 観劇ライブ記
前回のつづきです。



ミュージカル「手紙」もなかなかつらい演目であった。

東野圭吾原作で、映画にもなった有名作。
たったひとりの肉親で兄が殺人者となり、突然十字架を背負って生きることになってしまった弟のひたすらに辛い半生を描いた作品。
昨年の初演の好評に引き続いて、再度の上演ということでした。


作中とにかく、世の中から「仕打ち」を受け続ける弟がつらい。上手くいきそうになるたびにくじかれる。いや、もうさっさと兄さんと縁を切ればいいじゃないか、としか思えなくなる。
そこを切ろうとせず、つなごうつなごうとしてくる女と結局は家庭を持つことになるのだが、しかしその生き方は周囲から受け入れられず、家族もろとも追い詰められてしまう という哀しさ。兄との繋がりそのものが、愛情も憎しみも自己嫌悪もすべて籠ったアキレス腱である。

しんどすぎる。


演出が凄かった。演出藤田俊太郎氏。読売演劇大賞おめでとうございます。
日本の原作、日本のエンタメヒット作品からできた純粋なミュージカルを見たのは、「デスノート」に続いて2作目なんですが、(宝塚以外で。宝塚はまたこれ独特の世界観なので、ちょっと横においときますけど。)ここまで成立しているのに驚いた。
喜劇よりは悲劇のほうが作品にしやすいのかな?
私が去年熱狂した)ジャージーボーイズに引き続き、上段・下段をうまく使い、箱型の舞台装置を動かしながら、広くない舞台上が常時動かせる状況になっており、すごいなと持った。
そして息もつかせぬ曲の数々であった。何曲あったのでしょう。全部難しい曲だった。


役者について。
今回、兄を演じていたのは吉原光夫、弟は太田基裕のバージョンを見ました。

兄さんはさすがです。
あとはもう本当に何回見てもピエール瀧を思い出してしまう。歌がめちゃくちゃにうまいピエール瀧に見える。

そして太田のもっくんは、やはり何をしてもたたずまいの「育ちがいい」ので、兄の所業で引きずりおろされて打ちのめされる優等生という姿が似合っていた。そのまま普通に生きていたら使うことのなかったであろう感情のひだを、否応なく引きずり出されて戸惑う青年、という感じだった。
もう一人は柳下大がやっていたということでおそらく、より感受性の強い弟に見えただろうと思う。

もうひとり主要メンバー、兼役もこなしつつ、弟の妻になる小此木麻里ちゃんは小さいけどめちゃくちゃ歌がうまい。ジャージーボーイズにも出てましたね。ラプンツェルの歌担当。さらに戻ると、渡る世間は鬼ばかりの、東てる美の娘役ですよ。そう思うとすげー大きくなったと思う。関西弁でのしゃべり口がめちゃくちゃ流暢で、「あーこういう世話焼きの女、いる」という感じが100%。すばらしい。



それにしても、例えば白夜行とか秘密でもそうだけど、東野圭吾は『肉親』を絡めた「割り切れなさ」「切なさ」を描くのがうまいなあと思う。犯罪やミステリー装置という非日常感と、誰にでもわかる普遍的な人情に訴えてくる泣き所が共存しているので、多くの共感を呼び読者が絶えないんだよなあと思っている。
ちなみに最近、新参者シリーズの「祈りの幕が下りる時」を読んだばかりなのですが、これも本当に、なんとも言えない家族の話でした。こういうの本当にうまいよなあ… 
演劇好きにはなじみのある、浜町の明治座が舞台のひとつになっているのでぜひ。



ということで、長いかな、と思って続編にしたのに短くなってしまった。
単行本の上下巻販売戦略みたいな感じになってしまった。
そんなこともよくあるよね。

1月の観劇「ノートルダムの鐘」「手紙」(前)

2017-02-10 | 観劇ライブ記
なんやかんやありますが、元気に観劇をしています。


私は、自分のことをドメスティック人間アンド穏健な保守派アンド温室育ちという典型的な「善き(という自己認識の)日本人」だと思っており、そして人は善いかもしれないがわりと狭量だと思う。自由でいるつもりだが、経験の幅が広いほうではないので、ちょっとイレギュラーなことが発生するとすぐ動揺するし、なんやかんやで、いつの間にか刷り込まれた「あるべき論」に決断を揺さぶられることがよくある。
大人になってからは、できるだけ自分の中で出来上がった価値観を揺さぶられないように、身を置く集団を注意深く選択しながら生きてきているところもある。常に多数の現状肯定派としての歩みを進めることになるので、それは楽なことではある。一方で、ああ、こうしていろんなものがゆっくりと硬化していくんだろうなあ、という諦めのようなものもある。
動かさない筋肉は鈍くなってしまう。

そんななか、もはや久しく動かなくなった筋肉を内側から刺激してくるような作品を去る1月は連続で見てしまったので、外側からはそうは見えないかもしれないですが結構なダメージを負っている、という話を今からします。



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差別とは、考えるのはもちろん、口にするのもしんどいことである。

が、どんなに理想を語ったところで人間が複数いればどんなに小さい世界にも確実に存在するし、差別がありうる世界で生き抜く一人の者として無意識的にやることは、平たく言って「できる限り終生、自分が差別されないように立ち回る」、ということでしかない。
そう、自分のことをどうにかする、という、シンプルに言えばそれだけ。根本治療は考えられない。幸いにもそちら側に行ったことがない者としては、鬼ごっこから逃げ続けるだけ、という感覚がある。


「ノートルダムの鐘」
は、名作「レミゼラブル」作者のヴィクトル・ユーゴーの作品で、ディズニーアニメで有名。このたび劇団四季でミュージカルになるというので、気になって観てきた。
差別用語に敏感でなかった時代は「ノートルダムのせむし男」という名前で堂々出ていたこの作品。
ディズニー版の、「ほんとはいろいろ言いたいことあったんだけど、うまいこと勧善懲悪でまとめておきました」というハッピーエンドではなく、割り切れなさ満載の、とても演劇的な作品になっていました。
ディズニーのあらすじはウィキペディアしてください。


観劇時のキャストはこちら。




観て思ったのは、
「この作品のメインキャラクターはどう考えても幸せをつかむのが全員厳しいので、見ていてつらい」
ということでありました。


一番びっくりしたのが、

フロローの最愛の弟がジプシー女と出奔した挙句、形見として残された異形の甥=カジモド

という因縁複雑に絡み合った設定。

厳格な聖職者を目指す身でありながら心の底では少し羨ましく感じてしまっていた自由な弟、そして立場上けして許せない憎むべき無法者でありながらも己の眠れる性への衝動をかき乱したジプシー女、その間に生まれた甥が醜い化け物のような姿の子。頼れるものは自分しかいない無力な存在が、激烈な愛情と憎しみと欲望の掛け合わせた化身である、という、この設定だけで普通の芝居の1幕ができてしまいそうな濃さに圧倒されつつもここはプロローグ。これすごくないですか。カジモドとフロローが血がつながってるんですよ。唯一の肉親ですよ。
(ディズニーだと、自ら排斥したジプシーの女が遺した子だった。)

若干、ここの因縁のインパクトがすごすぎて、話のメインのイメージがあった、エスメラルダを軸とした四角関係よりも、この二人の互いの認識はどうなってるのかということにばっかり頭がいってしまいました。
まあカジモドにはその事実は伝えていないと考えても、フロローはどういう意識で「ご主人様」と呼ばせていたのか。呼ばせるたびに嗜虐心が満たされていたのか、いやいや、見ようによっては傷を抉り出す一種の自傷行為のようなものにも見えるけど、フロロー本人は施しを与えて心底満足しているようにも見えるし、真相やいかに。
食事や教育は与えられるものだけで、でもネグレクトされているわけでもないようで、ある程度はかまってくれるフロローに、すくすくと卑屈に育てあげられ、常におびえながらも素直で従順に仕える青年カジモド。
「愛憎あいまみえる甥を塔に幽閉」という、この設定を乗り越えて平然とカジモドを仕えさせるフロローは、ナチュラルに心がある程度壊れた人間ではないか、と思わせ、大変心配になると同時に、「主役はこのおじさんなのではないか」という気持ちが高まる。フロローが自ら内包する慈しみと憎しみの間で揺れるどうにもできない感情を飼いならすように、狭い塔の中に閉じ込められるカジモド。
うーん、やはり主役はフロローおじさんではないか・・・


カジモドは素直な若者という印象。
演じていた海宝くんの好青年感、「陽」の雰囲気にも引っ張られているところが多分にあると思うけど。そして海宝くん、うまいのは知っていたけども、今作では、背中をまげて(つまり常時中腰)顔をゆがめたまま歌が全力で歌えるという驚異的な能力者ぶりを発揮。『無双』という文字を背負っているように見えた。いっぱい客がついているんだろうなあ。たまたま海宝くん登板時に見られたのはよかった。
という中の人話はそれとして。
塔の中にいるカジモドは人間としては清すぎて、「象徴」といったイメージ。「無菌状態」ですね。閉じ込められながらも守られていたのかもしれない。飛び出た瞬間に、人間としての喜びも厳しさも一気に身に浴びることになってしまった。

フィーバス隊長は「俗なお兄さん」という感じ。戦争を生き残った大変さというあたりも描かれており、隠れた陰気さ(トラウマ?)も持ち合わせているあたりがやはりディズニーでは描かれていない。

そして、ヒロインのエスメラルダは、ディズニーの印象だと「いろんな男の心を手玉に取る自由奔放なセクシー美女」という感じだったけど、今回の舞台ではなんというか、「いろんなオタクに女神扱いされるアイドル」みたいな感じでした。
男たちに業が深すぎるせいかもしれない。1幕最後に3人から求められるシーンは「濃すぎるオタクからの熱烈アプローチ」という感じがした。みんな業が深いよ。
ただし、いずれからも「女」や「自由」の理想像として見られていて、あまり本人自身を求められていないようにも見えて、衝撃の最後も相まって、哀しい人に見えました。
3人から求められても、どのルートとも行き交えない感じがつらい。そしてなんだか現実的。


一番最後の「怪物と人間 何の違いがあるのだろう」という問いかけは、こわいですね。
それを歌う人々の演出にも衝撃を受けますが。
表面的には、「怪物と呼ばれ、排斥されるカジモド」と「異形を排斥する側の人間」に何の違いがあるのか、いや、そうではない ということで文字通り、差別問題を提示しているようにも見えるのだけど、それのみなのか、という気もする。
フロローの精神はかき乱され完全に普通の人間のものではない境地に至っていたし、そしてカジモドの最後の瞬間に現れた暴力性もこれもまた「怪物」だったとも感じられる。ぐいぐい入り込んできた割には最終的に地味に日和ってフェイドアウトしていくフィーバスも、静かな怪物ともいえるのでは。

つまり人は、他の人に触れた瞬間人間にもなり、怪物にもなりうる、ということかもしれない。
世に出るのは劇薬に浸かりに行くがごとく、ということなのだろうか。と思った。
ディズニー版の割り切りハッピーエンドは強引だったけど、リアルにやるとみんな受け止めきれないかもしれないから、このようにしてよかったよね、ということかもしれません。


劇団四季なので、めちゃくちゃ歌いまくる(メインキャストの歌唱力は言うまでもないが、今回歌を歌うだけの聖歌隊がキャスティングされていることもあり、こちらに向かってくる音圧がものすごい。壁のよう。)のだが、印象として、私がこれまで見た四季作品の中でも「演劇寄り」のイメージといいますか、歌でストーリーをとりまとめてシャンシャン、大団円、という感じではなく、割り切れなさや観客側への問いかけが大きいため、「うっ、劇団四季は不自然だから苦手」というような意識がある演劇好きには見てもらいたい渋い演目だと思いました。



一気に書こうと思ってたのだけど、めちゃくちゃ長くなってきたので続。
ブログが久しぶりすぎてちょっと改行めんどくさくなってきたので取りあえずアップいたしましたよ。