日々描いたマンガやスケッチ、似顔絵などを貯めていく貯金箱のようなブログ。
スケッチ貯金箱
うたのイラスト(「どんぐりころころ」)

誰でも知っている童謡、と思ったら、今はあまり教えられていないみたいです。
大正時代に作られた歌ですが、広まったのは戦後とのこと。
こういう歌はずっと教えてもいいのに、と思いますがね。
ドングリはのっぺらぼうなので、イラストにするには目鼻と手足を付ける必要が出てきます。
結構難しい画題だと思います。
お山が恋しくなったドングリ坊やに、困り顔のドジョウというのは絵になりますけど。
うたのイラスト(「お嫁においで」)

加山雄三さんの大ヒット曲なのだけれど、
今ではこのタイトルで曲を出すのはなんとなくためらわれるかもしれない。
素直な歌詞なんですけどね。
作詞は岩谷時子さん。作曲は弾厚作(加山雄三)さん。
編曲にハワイアンの大御所、大橋節夫さんという豪華な布陣。
岩谷さんの女性目線から見て美しいと思う光景が描かれているのだから、余計な事を考えずに味わうのが良いと思う。
「舟が見えたなら ぬれた身体で駆けてこい」というのは、愛らしい光景だ。
加山さんは「珊瑚でこさえた 紅い指輪あげよう」という歌詞の「こさえた」という表現に感動したそうである。
「つくった」でなく「こさえた」という表現。
彼女のために一生懸命作っている光景が浮かぶ。
歌謡曲の詞はようく味わうと、なかなか奥が深い。
イラストは海の青を基調にしました。
うたのイラスト(「砂山」)

私は新潟市内に行ったことはあるけれど、新潟から直接日本海を見たことはない。
だから佐渡を望む日本海と、海辺の砂山というのを実感としては知らない。
でもこの「砂山」は、子供の頃から親しんだ歌だから、私にとっての「砂山」は確固として存在する。
案外、歌というものはそういう風に受け継がれていくものなのだろうと思う。
それがその作品の持つリアリティというもので、実証的にあれこれ言っても始まらないのである。
というわけで、私なりの「砂山」を描いた。久しぶりに彩色してみた。
やはりこの情景に色彩は必要だろうと思ったからである。
「砂山」作詞・北原白秋(作曲は山田耕筰と中山晋平の二作あり)
一、海は荒海 向こうは佐渡よ
すずめ啼け啼け もう日は暮れた
みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ
二、暮れりゃ砂山 汐鳴りばかり
すずめちりぢり また風荒れる
みんなちりぢり もう誰も見えぬ
三、かえろかえろよ 茱萸原(ぐみわら)わけて
すずめさよなら さよならあした
海よさよなら さよならあした
うたのイラスト(故郷〔ふるさと〕)

日本人の愛唱歌の代表格。誰でも知っているし、誰でも歌える。
でもこの歌の歌詞をよく考えてみた人は意外と少ないのかもしれない。
懐かしいふるさとの光景が歌われている。しかし一番の歌詞は過去形で、二番の歌詞は現在を想像する形で、三番の歌詞は不確かな未来の形で歌われている。眼前にある現在の故郷の姿を歌ったものではない。
なぜか。つまりこれは、「故郷を捨てた人の、望郷の歌」だからである。室生犀星が詩に詠んだごとく、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」だからである。いや、そう思わざるを得ない人の心の裡のふるさとだからである。
幼き日を過ごし、友もいる故郷を捨てて、彼(彼女)は都会へ出た。しかし人生の常、世間は甘くない。夢は打ち砕かれ、望みは果て、志は潰える。現在なら故郷へ戻ることは容易いだろう。しかし一昔前の社会はそうではなかった。出世してこそ故郷を去った言い訳は立つ。尾羽打ち枯らした姿でおめおめとどうして帰れようか。心無い蔭口が待っているのだ。両親に会いたい。友にも会いたい。しかし帰れない。都会で悶々と過ごすその心の裡に、子供の頃遊んだ山川があざやかに浮かぶのだ。そしていつの日か志を果たして晴れ晴れと帰郷する日を、当てもなく夢見るのである。その心に、故郷の山や川はいっそう青く清く蘇るのである。
この歌は近代日本の民衆の心情を掬い上げた名曲でもあるのだ。だからこれほど国民に広まったのだと言っていいだろう。これからの日本人はどう変わるのだろうか。
故郷(ふるさと)
高野辰之作詞・岡野貞一作曲
1.兎(うさぎ)追いしかの山、
小鮒(こぶな)釣りしかの川、
夢は今もめぐりて、
忘れがたき故郷(ふるさと)
2. 如何(いか)にいます父母、
恙(つつが)なしや友がき、
雨に風につけても、
想いいずる故郷。
3. こころざしをはたして、
いつの日にか帰らん、
山はあおき故郷、
水は清き故郷。
うたのイラスト(リンゴの唄)

この曲については以前書いたことがあるが、今ページとして残っていないので、もう一度書こうと思う。
1945年の作品(発売は翌年)ということだから、私のような歳の者でもリアルタイムでは知らない。「大戦直後に、日本国民に明るい希望を与えた曲」というストーリーで語られてきたわけだけれども、1949年の「青い山脈」と比べると、底抜けに明るい、という感じがしない。かすかに悲しみのようなものを感じさせるところがある。
そう思っていたところへ、先日亡くなられた橋本治さんの書いた文章を読んで納得がいったのである。
冒頭の有名なフレーズで、赤いリンゴに唇をよせながら「黙って見ている」青い空、という描写がある。なぜ青空を黙って見ているのだろう? 希望に満ち溢れているのなら、笑って(あるいは微笑んで)見ているのが普通ではないか。ここで考えなくてはいけないのは、この曲が作られたのは終戦直後、まだ戦の傷が癒えない時だった、ということである。
昨日まで続いていた戦争。そこで亡くなった近しい人たち、失ってしまった物、希望。そして戦争は終わった。しかしまだ心の傷は生々しく残っている。そんな時に、飢えた腹をかかえた人が、リンゴをかじる前にふと青空を見る。そして失ったものがいかに大きかったか、という感情に改めて襲われる。そんな人は、ただ黙って空を見つめるしかないのである。
新しい時代が来た。前を向いて歩かなければならない。でもまだ、希望に燃えるという段階ではない。むりやりにでも明るく、心のうちでは泣きながらも前を向いて歩くしかないのである。4年後の作品「青い山脈」との違いはそこにあるのだろう。
うたのイラスト(ワン・レイニー・ナイト・イン東京)
うたのイラスト(「いぬのおまわりさん」)

迷子になった子猫ちゃんが泣いて(鳴いて)ばかりいるので
持て余してしまった犬のおまわりさんは、
結局自分もワンワンと鳴くばかり。
ちょっと頼りないところがまたご愛嬌です。
両者ともに可愛く思えるところがこの歌のミソなんでしょうね。
うたのイラスト(「赤坂の夜は更けて」)

西田佐知子さんが歌った歌で、子供の頃「いい歌だなあ」と思った覚えがある。
実はとても大人の歌なのに、いい歌は子供の感性にも訴えるのだなあ、と思う。
今回、ちょっと昭和っぽい面差しの絵が描けたので、何かいい曲を当てはめたいと思っていたら、この歌が浮かんできた。
というわけで、何となくその雰囲気で仕上げてみました。
うたのイラスト(青い背広で)

1937年(昭和12年)の曲。
昭和初めの、「モボ・モガ」の時代が舞台だろう。
作詞・佐藤惣之助、作曲・古賀政男。
青い背広を着て、彼女と町へ出かける。
「青い背広で 心も軽く
街へあの娘と 行こうじゃないか」
その浮き浮きとした気持ちを歌った唄だ。
「お茶を飲んでも ニュースを見ても
純なあの娘は 仏蘭西(フランス)人形
夢を見るよな 泣きたいような
長いまつげの 可愛い乙女」
今から見ると、純情な歌詞である。
恐らく、今の人間には最も表わすのが難しい情感かもしれない。
ひねてしまったからなあ、今の人間は。
でもなるべくその情感を想像して、描いてみました。
うたのイラスト(Yes Sir, That's My Baby)

YouTubeを見ていたら、
スウェーデンの女性ジャズ・ミュージシャン、Gunhild Carlingという人が演奏していた。
何種類かの楽器を演奏できる才人だけれど、
歌もうまいし、何より演奏が物凄く楽しい。
古いスタンダード・ナンバーが多い中で、
このナンバーの演奏が特に気に入った。
日本のジャズ・シンガーがこの歌を歌うのを聴いたことがあったが、
この人の演奏は楽しく、魅力的だ。
以前「スウィング・ガールズ」という映画があったけれど、
女学生がこの人みたいに演奏出来たら格好いいだろうな、と想像して絵にしてみる。
うん、これなら決まるな。現実に現われないかな、こんなミュージシャンが。
うたのイラスト(「花の街」)

江間章子作詞・團伊玖磨作曲の歌曲。1947年の作品。
子供の頃に学校で習った。歌詞が印象的。
詞の主人公は風(風のリボン、と言っているのは一種の象徴的表現だろう)である。
春風が吹き渡るさまを歌った後で、突然、一人で泣いている人の姿が歌われる。
はっとする表現である。
これでふと思い出したのが、以前フィレンツェへ旅行した時、ピッティ宮殿の近代美術館という所で目にした一枚の絵である。
画家の名は忘れたが、タイトルは「piangentina(泣いている小さい女の子)」という絵で、昼下がりの陽光の中、立ち止まったまま泣いている小さな女の子を描いた絵だった。
なぜ泣いているのかは分からない。しかしそのシクシクという小さな泣き声と、風にざわめく木立の葉の音が聞こえてくるような絵で、大変惹き付けられたのを覚えている。
「花の街」では、窓辺で泣いている(おそらくは女性)姿が歌われているけれども、今回はさきほどの絵の印象とのミックスで、家のそばで泣いている小学生くらいの女の子を描いてみた。ペン入れしようかとも思ったが、エンピツのまま載せることにする。
うたのイラスト(「早春賦」)
うたのイラスト(「東京ブルース」)

この歌は、奇妙な形で私の頭に蘇った曲である。
西田佐知子の歌った有名なヒット曲である。もちろん知っていた。というより、忘却の彼方からふと浮かび上がって頭に焼き付いたのである。しかも私の父が危篤になった、と知らせを受けたその朝に、である。
連絡を受けた私は急いで早朝の電車に乗り、実家のある町の病院へ向かった。とはいっても、電車がいつもより速く走ってくれるわけではない。
(親父が死んでしまう。親父が死んでしまう。)
電車の床を見つめながら、心の中でそう繰り返す。しかしその思いとは全く関係なく、ふと「東京ブルース」は頭の中で鳴り始めた。内容は父親とは全く関係ない。なぜなのだろうと思いながら、しかしその歌は私の心を揺さぶり続けたのである。人間とはなんと不思議なものか。死に瀕した父と、古い昭和の歌。一体何がつながっていたのだろうか。
病院へ着いて、もう穏やかになっていた父の死に顔を見てもなお、その歌は鳴り続けた。もはやこの歌は私にとって、懐かしい昭和歌謡ではなく、父の魂を送った時の歌に変わってしまった。
きっとあの時、父と共に、私が過ごした昭和の日々の一部が死んだのだ。私の一部でもあった大切な何かが、ゆっくりと、でもはっきりと死んでいったのである。その象徴として、私の心があの曲を選んだのだろう。これは作詞・作曲者や歌唱者には何の関係も責任もない、私個人の魂の問題なのである。人は死んだときに死ぬのではなく、時と共に人々の心からその記憶が薄れて行ったときに初めて死ぬのである。時代もまた、そこに生きた人々が一人去り二人去り、誰も思い出してくれる人がいなくなった時、真の意味で死ぬのである。それまでは緩慢に、少しずつその時代の一部が、人々の心の中で死んでゆくのだろう。
この曲を聴くと、どうしてもあの朝の心情を思い出す。そしてとどめようもない時間の移り変わりを思わずにいられないのである。
うたのイラスト(岩崎宏美さん「想い出の樹の下で」)

昔、岩崎宏美さんの歌が好きで、レコードも何枚か持っていた。
会社勤めをし始めた頃、実家から片道2時間も掛かったので、家を出る前、気分を高揚させようとしてレコードを1曲聴いてから出社した。その頃、岩崎さんの「想い出の樹の下で」をよく聴いたことを覚えている。
YouTubeで久しぶりに聴いたら、やはりとても良い曲だ。昔の岩崎さんを見るのも懐かしい。やっぱり可愛らしかったな。
それでこの歌を歌う岩崎さんを描いてみた。
もしこの曲を知らない人がいたら、聴いてみてほしい。凄くいい曲だし、岩崎さん、上手いですから。
うたのイラスト(「ソーラン渡り鳥」とこまどり姉妹)

私の父母の世代の日本人庶民の心情というものは、徐々に忘れ去られているような気がしている。昔の歌を聴くと、特にそう感じる。
こまどり姉妹と言えば、相当の年配となっても若いころと同じ振り袖姿で三味線を抱え歌う、不思議な双子の歌手といった印象を持つ人もいるかと思うが、彼女たちの歌った歌は、昭和の中頃、まだ貧しかった日本人たちの、人生における苦労を象徴的な形で歌ってその心を癒した、まさに「昭和の歌」だった。
代表作「ソーラン渡り鳥」は、貧しく幼い姉妹が、東京に出て場末の酒場などで三味線を弾きながら歌って生きる姿を描いている。今とは比較にならないほど差別的言動の露骨だった昭和の時代に、そのような場所でうら若き乙女二人が、どれほど好奇の目にさらされ辛い目に遭うのかは想像を超える気がする。瞼の裏に浮かぶ故郷のハマナスの花を思い、江差の町を、鰊場(にしんば)を恋う姿、稀に巡り合う人の情けに涙して、今日も健気に唄を歌う姉妹の姿。その歌詞の姉妹と、こまどり姉妹の姿がオーバーラップし、庶民は戦後の苦しい時代の自らの苦労とも重ね合わせて涙を流したのであろう。
これは私が幼い頃見ていた大人の姿にも重なるものだ。その心情が今は伝わりにくくなっているのである。時は残酷なものだ。せめて彼女たちの若き頃の姿とその歌声がYoutubeなどで見られるようになったのは喜ばしいことである。文学などが掬いきれなかった、こういう庶民の心情を記録した貴重な音声と映像であると思う。
« 前ページ | 次ページ » |