うららかな4月の光の中、自分の許を突然去っていく彼女。
声をかけても振り向かない彼女が、バスを待っている後ろ姿。
それを見つめる主人公の複雑な心境。
失意と悲しみと、彼女への思いやりと自らの再出発への希望と、
いろんな感情がないまぜになった心中を歌った歌詞がすばらしい。
作詞は若き日の秋元康さん。
曲調は爽やかな中にかすかな悲しみが漂う、やはり名曲と呼びたい作品。
北島三郎さんのヒット曲。
高度成長を遂げた当時の東京で、
歌手を夢見て上京した男が
望みも果たせず、場末の酒場でギターの「流し」をやっている。
捨てた故郷を忘れられず、しかし夢も捨てられず、
今日も酒場を訪れては
情けにすがって一曲歌わせてもらい
わずかばかりの金を稼いでいる。
特に2番で歌われる、故郷の今は亡き「あの娘(こ)」=初恋の相手が、
生きていれば今頃は二十歳だった、
「俺もあん時ゃ うぶだった」という歌詞が切ない。
私は昔一度だけ、本物の「流し」に出会ったことがある。
にわか仕込みでレパートリーも少なく、ギターもメロディラインしか弾けないという、
ちょっと気の毒な流しだったが、いやだからこそ
この歌にぴったりな感じがして忘れられない。
いずれにせよ、これはあの頃の歌謡曲の傑作だろう。
朝ドラ「エール」で軽く触れられていた、古関裕而さん作曲の明るい歌。
岡本敦郎さんが歌った。
歌の冒頭、汽車の窓でハンカチを振ると牧場の乙女が花束を投げてくる、という描写がある。
花束といったって、花屋で売っているようなものではなく、野の花を集めたささやかなものだろう。
牧場の乙女、というのは牧場に遊びに来た女の子と解釈してもよいだろうが、私は牧場で働いている少女と理解した。
というわけでこんな図柄になりました。
「東京の屋根の下」は、灰田勝彦さんの歌だ。
この歌については、わすれられない映像の記憶がある。
NHKの公開歌番組で、灰田さんが女優の高峰秀子さんをゲストに招いて歌ったシーンである。
灰田さんが「東京の屋根の下に住む 若い僕らは幸せ者」と歌い出すと、高峰さんがいつの間にかスッと立って灰田さんの横に立ち、自然な感じで恋人同士のように腕を組み、灰田さんの歌に合わせるように二人でゆっくりと歩き始めた。
その瞬間、ステージは映画の世界に一瞬にして変わった気がした。
この時の高峰さんは素敵だった。「素敵」なんて言葉は私は普段決して使わない。でもこの時の高峰さんは「素敵」以外の何物でもなかった。
灰田さんと高峰さんの映像は「燦(きら)めく星座」を歌ったものがYoutubeで見られる。でも「東京の屋根の下」の映像は無い。もう一度見てみたいものである。素敵な姿を。
イラストは記憶をもとに、上の映像も少し参考にして描いた。伝わらないかもしれないけれど。
弘田三枝子さんの「ヴァケーション」を久しぶりに聞く。
弘田さんが先日亡くなって、多くの人が「人形の家」を思い出したと思うが、私みたいな古い人間には、弘田さんと言えばやはり「ヴァケーション」だろうという気がしてならない。
これが流行ったのは、わたしが小学生だった頃である。それでもこの明るくて「パンチ」の利いた歌は魅力的だった。アメリカン・ポップスのカヴァーなのだけれど、元のコニー・フランシスより断然弘田さんの歌唱に軍配を上げたい。
歌っているのはただ「長い休みが来て、うれしくてたまらない。思い切り遊んじゃおう!」というシンプルな気持ちである。それなのに、弘田さんの歌を聞くと、それがとてつもなく楽しいものに思える。こういう歌こそ現在のコロナ禍には実は必要なのではないかと思う。
弘田さんはその後いろいろあって、別人のような姿になってカムバックした。でも、その裏話には正直深入りしたくない。ただ、デビュー直後の、あの健康さに溢れたダイナミックな歌の明るさを今は聞いていたい。コロナの暗鬱の中で亡くなって行った歌姫への、それが供養になるのだと私は思っている。絵は、歌のイメージを私なりにちょっとマンガ風イラストで。
この曲はYouTubeで簡単に聴ける(オリジナルのレコードヴァージョンが最高)ので、ご存じない方は是非どうぞ。
これも山本潤子さんの映像を見て知った歌。
私は昔フォークソングを真面目に聞いてはいなかったので、知らない歌も多いのだ。
この歌は、赤い花を、白い花を、
「あの人」の髪や胸に飾ることを思い描いている少女の心を歌っている。
絵にかいたような「乙女」なのだけれど、
それがあまりにも真摯(しんし)なので逆に心を打つのである。
絵に描いたようなものを、「絵に描く」のだから難しい。
どのくらい表わせたかな。
ともかく、歌は簡単に聴けますので、絵は抜きにしてそちらを鑑賞してください。
YouTubeを聴いていたら、山本潤子さんがこの歌を歌っている映像があって、その歌声に聞き惚れてしまった。
この歌は漠然とは知っていたけれど、こんなに心に深く染み入ってくるとは思わなかった。
この歌にまつわるあれこれは、詳しく語っているサイトが沢山あるので、そちらを見て頂くとして、私はこの「子守り(守り子)」の仕事に出され、親にも会えない幼い女の子の心情というものが心に迫って来るのを感じたので、それを絵にしてみた。
ここで私などがグダグダと語るより、山本さんの歌を聴いてもらうのが早いと思う。赤い鳥の時代のものも、後にソロで歌っているものも両方YouTubeで聴けるので、知らない方は聴いていただけたら、と思う。
日本ではほとんど知られていない曲(と思う)。
イタリアのサン・レモ音楽祭の第6回(1956年)およびユーロビジョン・ソング・コンテスト1956の優勝曲。
フランカ・ライモンディという歌手が歌った。
なぜこの曲のことを書いたかというと、新型コロナウィルスの蔓延で、外出制限が解かれても常に用心していなければならず、どうも心が沈みがちなのだけれども、この、春の訪れを素直に感じて「窓を開けなさい。春なのよ」と歌うこの曲のシンプルな明るさがかえって心に染みるような気がしたからである。
こんなふうに、晴れ晴れと窓を開けて空気を胸いっぱいに吸い込める気分の日々が早く戻って欲しい。
この曲はYouTubeで聴くことが出来ます。
https://www.youtube.com/watch?v=BCWxPilk3KE
朝ドラ「エール」にそろそろ登場するであろうヒット曲。
音丸さんという歌手が歌った。
その昔、歌謡曲には「芸者歌手」というジャンルがあったそうだ。
音丸さんは芸者さんではなかったらしいが、広く含めればそこに属する歌い手、ということになるらしい。
本職の芸者出身の歌手には市丸さんという、有名な歌手がいた。
市丸さんは私の出身地、相模原市の「相模原音頭」を歌っている。道理で粋な歌い方だと思ったわけだ。
それはそうと、私は昭和30年代、小学生の時分に、当時すでに懐メロとして歌われていた昭和初期の歌謡曲などを好んで聴いていた変な子供だったから、こういう歌は好きだ。
当時の歌謡曲はプロの作詞家や詩人などが書いていたから、その言葉遣いなどに惹かれていたのかもしれない。
「船頭可愛や」は高橋掬太郎の作詞で、その他の作品には「酒は涙か溜息か」「啼くな小鳩よ」などがあるという。
音丸さんには「下田夜曲」というヒット曲もある、これもなかなか良い。
イラストは、曲のイメージで。昭和初めの、小柄な女性という感じで描いてみました。
新型コロナウィルスの流行で日本全体、いや世界全体が逼塞している。
各地で感染者報告が相次ぎ、誰もが神経過敏とも言える状態である。
感染者が多い地域に行く人は、多少なりとも気を遣わざるを得ない。
私の生まれ故郷・相模原市も感染者が続出して報道されたため、ずいぶんイメージダウンを被っていると思われる。
私は決して「故郷の絶対礼賛者」ではないけれども、やはり自分が生まれ育った町が、良くない話題で次々取り上げられるのを見ていい気持ちではない。
最初に死者が報告された相模原中央病院は、私の亡き父がお世話になった病院でもあった。現場の方々やご家族はさぞ大変な思いをされたのではないか。
故郷の町がこんな時に昔のことを書いても仕方がないが、せめてもう少し明るい気持ちを思い出すためにこの歌を取り上げた。
もっともこの「相模原市民の歌」は、何でも「ひばり放送」という防災無線放送でしばらく使われていたとかいう話で、そこでは亡くなった方の情報も伝えていたらしいから、人によっては縁起でもないと感じるかもしれない。
しかし元々は昭和33年に「明るく歌える市民の歌」として公募されたもので、当時の新興都市の活気ある情景が歌われている。子供の頃小学校の校庭で催されていた「自動車ショー」(自動車の戸外展示会)でも盛んに流れていた。私のイメージはそっちである。
YouTubeでもこの曲は聞くことができる。歌詞も検索すれば出てくるのでここには記さないが、高度成長期に差し掛かる希望にあふれる雰囲気が偲ばれる歌である。
イラストはその雰囲気のラフなスケッチ。「生産の平和の煙」が立ちのぼるイメージで。
子供の頃、コロムビア・ローズさんという歌手が歌って大ヒットしていた。
私の記憶では、路線バスのバスガールという職業は私が中学生の頃まで普通に存在していた。中学校はバス通学だったから、女性の車掌さん(「車掌さん」と呼んでいた)は毎日目にしていたのである。
歌で歌われているのは今もある「はとバス」の車掌さんらしいから、ちょっと路線バスの車掌さんとは違うのだけれど、ある種花形職業だったのだろう。
バスガールの誇りと、職務上の辛さ(酔った客にいやな言葉を言われる)なども歌われている。淡い恋心がはかなく潰える様も歌われていて、今でいう職業ドラマの歌謡曲版ともいうべき内容である。
私は中学生の時、帰りのバスを間違えて違う路線に乗ってしまったことがある。定期券だけで、現金は持っていなかった。「どうしよう」と焦って、途中の停留所で降りた。定期券を半分手で隠すようにして降りて、「ああバレなかった」と安堵した。それから、遠くに見える市民会館(当時は高い建物がなかったので、遠くからも見えた)を目指して畑や野原を突っ切って歩いた。途中で野犬の群れに囲まれて肝を冷やしたが、じっとしていたら去って行った。運が良かった、と思っていた。もちろん無事に家へ帰りついた。
しかし今になって思うと、その時のバスのバスガール=車掌さんは、中学生の小芝居など当然お見通しで、あからさまに焦っている表情を見て見逃してくれたのだと思う。優しい車掌さんだったのだ。
半世紀以上も経って、心の中で「ありがとうございました」と伝えたい気分である。
そのバスガールも、観光バスにしか今は残っていないのだ。激務とは思うけれども、頑張っていただきたい。