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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あちらがこちらに

2019-02-03 11:31:20 | スピリチュアル
私が精神的道についていつも書いていることの基幹となっているものは、こちら側から例えば悟りの境地を目指し、到達しようとしたり、何かを獲得しようとすることでなく、彼岸にあるとされる、その目指しているものの方が此岸、こちらに表れる、というものです。
これは謎の秘教団体、大調和協会で聞かされていた言葉を借りて言えば、"為そうとするのでなく、成ってくる"、"知りて後分かるのでなく、自明に知らされてくる"というようなことです。
思えば40年前、思いを超えたものが私に臨んだ頃、その大調和協会を始め、書物を通じてのものが中心でしたが、同時期に相次いで巡りあった道の縁というのは、大体がこういう消息を伝えているものなのでした。
例えば当時、兵庫豊岡で発信されていた"知られざる"要之神示は、教えや修行にあらず、神が直々臣民のミタマに表れると告げ、小池辰雄先生はやはり信じる信仰でない、聖霊の恩寵による神キリスト直結の道を唱道し、ベルジャーエフは、通常思弁によって到達されるべき神的絶対者は既に彼においては開かれており、そこから出発してその哲学を展開するのを常としていました。
当事はまだ修行系が主流だったと思われますが、私は全くそちらに心が動かされることはなく、こういうものに揺さぶられていたのです。
これには、それを目指して修行をしていた訳でもなく、突如思いを超えたハタラキが臨んできたという、私のその当時の実体験が関係していたのも確かなことです。
そのいくつかの道の縁は、その言葉にならない、訳の分からないことになっている事態に、ある理解、血肉となるものを与えられたとも言えるのです。
これはしかし、何もしないでポカーンとしていた訳でもありません。
起きてみれば、晴天の霹靂のように感じますが、それが臨むことには、あまり自覚はしてなかったにせよ、こちらの"望み"というものもあったのです。そうでなければ心が揺さぶられるということもないでしょう。
何事でも、その気が無ければ開かれない..."ケ"の無いものには、何も実現することはありません。
意識的になることはやはり必要と言えます...が
それはこちらで何か力んだり、構えたりして"意識i いしきi イシキーッi"とやってることとは違います。そんなことしても多分自意識過剰、神経症になるだけでしょう。
これは逆効果であり、為そう、なろうという思いを手放さなければ、自ずと成ることも成ってこないのです。
これは"御心のままになさせたまえ"、"カムナガラたまちはえませ"、という祈りの心根に通じるものです。
ここで、意識的になる、意識が向かうということは、そうさせる何かがあるということなのです。自ずと意識がある中心へと収斂して行く何かが...
やはりこちら側に先立って、その本になるものがあると言わざるを得ません。少なくともこういう相関関係があるのです。
ベルジャーエフが言うように、人間存在にはそれに先立つ"神人"ともいうべき、超越的人間を想定しなければ説明出来ないでしょう。
ここに鳴動しているものに、自ずと意識が向かい、集められてくる...
そこに立ち上ってくるものにただ合わされるだけ...いつも同じ感じになってしまうのですが...どうも書いているうち、あまり考えられなくなってしまうものでして...
春を向かえ、一段と"御顕れ"がありやかになってくるようで...。


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ずっと奥に息づいている

2019-02-01 03:53:28 | 意識、照明
何度も書いているように、私が思いを超えたハタラキ、現臨というものを感じるようになったのは、自覚されている限り、昭和54年の今頃でした。
振り返ると、その時分から現在にかけて、時空を超えて一つにつながっているように感じられます。
これは今もなお、ずっと私の奥に息づいているものを通して、そう感じられてくるのです。
しかし、自覚された領域においては、実際は長い間その感じが途絶えていた時期があって、翌年の夏頃突然それは無くなってしまったのです。
で、その感じというのは、その頃は今と違って、"意識が向くとパッと..."という、オートマチックなところはそんなになくて、主として宗教的、スピ的な書物を読んでいる時が多かったと思います。
読んでいる内に、ぐわーっと何か高揚した感じになってきて、こうなると字面を読めなくなってしまうのです。
読んでいるのか、読んでないのか、本を、字を見てるのか、行間がどうとかも、その意味も、どうなってるのかサッパリ分かりません。
そういう本なら何でもという訳でなく、それは限られています。如何にも私の魂を揺さぶらずにおかないような本です。
何故その限られた書物がその時期、簡単に入手出来ないものもあったにも関わらず、立て続けに出会わされるのか、ということも今考えてみても不思議なことです。
そんなのは、ただ単に感じやすい私が一寸した感激に耽ってるだけじゃないのか?、とも思えるのですが、私には玉城康四郎先生が何気なく書物を読んでいたら、高揚なんてどころでない、"爆発、木っ端微塵"体験に与ってしまったというエピソードには頷けるものがあります。
そういう風になり得る契機というのは何度かあったと思います。
しかしながら、それも思いがけなく消え去ってしまったのです。
これは多分、諸々の煩悩に囚われたことが要因でしょう。意識がそっちに向かってしまったのです。
そうです。"意識がどこに向けられるいるか"、"意識的であること"、"意識の在り方"ということがじっつに、極めて重要なことなのですi
これは、マインドフルネス瞑想などでは、"意志的"に行としてしていることですが、そんなに意志的でなくとも、"現臨"にあるとは、そうなっているということです。
私はそれが自然にもたらされたものでしたので、その"自然消滅"の事態というものを、為す術も無く受け入れるしかなかったのです。
それは突然やって来て、何かが開かれ、自ずと何かが進行して行くと感じられたものが、突然去って行き、閉じられてしまったのです。
私の昭和58年夏の爆発、木っ端微塵体験というのは、この閉ざされた時期に又思いがけなく起こったものなのです。
何故そうなったかは分かりません。とにかく思いがけなくそうなるのです。
元々が閉ざされた土壌にあったためか、それも又すぐ消え去ってしまいました。
そういうことはハッキリ自覚されていました。自覚されている限りでは。
しかし、この自覚意識というものを一寸めくってみると...実に表層意識の部分でそう思っていたようで、その奥にずっと変わることなく、息づいているものを覚えます。そう、身に覚えているのです。
もし、本当に自然消滅し、消え去ってしまうものだとしたら、何で今こうして、その息吹を実感することが、この期間に何の断絶も無く、一連なりのように感じることが出来得るでしょうか?
私は多分にこの意識の奥に息づいているものに、意識が根付くことなく、何か神の思し召し次第で、ああいうことになるものだと思っていたようです。
こういう心持ちも大事ではあると思いますが、私はその思し召しというものに、"常に私とつながっていなさい"という響きが強くあるのを、この息づいているものと共に身に覚えているのです。


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