人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ずっと奥に息づいている

2019-02-01 03:53:28 | 意識、照明
何度も書いているように、私が思いを超えたハタラキ、現臨というものを感じるようになったのは、自覚されている限り、昭和54年の今頃でした。
振り返ると、その時分から現在にかけて、時空を超えて一つにつながっているように感じられます。
これは今もなお、ずっと私の奥に息づいているものを通して、そう感じられてくるのです。
しかし、自覚された領域においては、実際は長い間その感じが途絶えていた時期があって、翌年の夏頃突然それは無くなってしまったのです。
で、その感じというのは、その頃は今と違って、"意識が向くとパッと..."という、オートマチックなところはそんなになくて、主として宗教的、スピ的な書物を読んでいる時が多かったと思います。
読んでいる内に、ぐわーっと何か高揚した感じになってきて、こうなると字面を読めなくなってしまうのです。
読んでいるのか、読んでないのか、本を、字を見てるのか、行間がどうとかも、その意味も、どうなってるのかサッパリ分かりません。
そういう本なら何でもという訳でなく、それは限られています。如何にも私の魂を揺さぶらずにおかないような本です。
何故その限られた書物がその時期、簡単に入手出来ないものもあったにも関わらず、立て続けに出会わされるのか、ということも今考えてみても不思議なことです。
そんなのは、ただ単に感じやすい私が一寸した感激に耽ってるだけじゃないのか?、とも思えるのですが、私には玉城康四郎先生が何気なく書物を読んでいたら、高揚なんてどころでない、"爆発、木っ端微塵"体験に与ってしまったというエピソードには頷けるものがあります。
そういう風になり得る契機というのは何度かあったと思います。
しかしながら、それも思いがけなく消え去ってしまったのです。
これは多分、諸々の煩悩に囚われたことが要因でしょう。意識がそっちに向かってしまったのです。
そうです。"意識がどこに向けられるいるか"、"意識的であること"、"意識の在り方"ということがじっつに、極めて重要なことなのですi
これは、マインドフルネス瞑想などでは、"意志的"に行としてしていることですが、そんなに意志的でなくとも、"現臨"にあるとは、そうなっているということです。
私はそれが自然にもたらされたものでしたので、その"自然消滅"の事態というものを、為す術も無く受け入れるしかなかったのです。
それは突然やって来て、何かが開かれ、自ずと何かが進行して行くと感じられたものが、突然去って行き、閉じられてしまったのです。
私の昭和58年夏の爆発、木っ端微塵体験というのは、この閉ざされた時期に又思いがけなく起こったものなのです。
何故そうなったかは分かりません。とにかく思いがけなくそうなるのです。
元々が閉ざされた土壌にあったためか、それも又すぐ消え去ってしまいました。
そういうことはハッキリ自覚されていました。自覚されている限りでは。
しかし、この自覚意識というものを一寸めくってみると...実に表層意識の部分でそう思っていたようで、その奥にずっと変わることなく、息づいているものを覚えます。そう、身に覚えているのです。
もし、本当に自然消滅し、消え去ってしまうものだとしたら、何で今こうして、その息吹を実感することが、この期間に何の断絶も無く、一連なりのように感じることが出来得るでしょうか?
私は多分にこの意識の奥に息づいているものに、意識が根付くことなく、何か神の思し召し次第で、ああいうことになるものだと思っていたようです。
こういう心持ちも大事ではあると思いますが、私はその思し召しというものに、"常に私とつながっていなさい"という響きが強くあるのを、この息づいているものと共に身に覚えているのです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする