玉城康四郎先生に「近代インド思想の形成」(東京大学出版会刊)という、絶版であり、約600頁に及ぶ大著でもあり、オイソレと手が出にくい書物があります。
この本には、有名なところでガンディーやタゴール、ラーマクリシュナなど、主として19世紀から20世紀にかけて活躍した、現代でも宗教やスピに関心のある人なら、大概どっかで聞かれたであろう、思想家の名前は出てくるのですが、大半を占めているのは、ヴィヴェカーナンダとオーロビンド.ゴーシュについての、その思想体系の紹介と考察なのです。
ラマナ.マハルシについては、それに比べてごく短いものですが、先生が書いたものでまとめて読めるのは、私の知る限りこの本くらいではないかと思われます。
ラマナの思想は、ご存じのように、前二者に比べて全く体系的でありません。それにその格好たるや、近代云々とは程遠いと言わねばなりません。
だからあまり筆が進まなかった?、訳でもないでしょうが...私はもう、この文章に接するだけで、何とまあ、ラマナの思想を短くまとめられているのか、と改めて感じ入ってしまいまして、そのことに限らずこれは、あらゆる精神的道に関わるキモのようにも思える、と言っても過言ではないくらいなのです。
久しぶりに読んでみて、まず先生は、ほとんどのラマナの訳書で、"真我"と記しているところを"本性"と訳しているのに注目させられました。
私が最初に読んだ時(平成8年夏)は、ただの言葉の言い換えぐらいにしか感じなかったものでしたが、その言葉から醸し出される、導かれる響きの違い(これは勿論、その日本語の語感のことを言っているのであり、原語ではどうなのかは分かりません)が感じられて、これは結構大きい問題のように感じたのです。
真我というと私などは、これを読んでる私は真なのか、偽なのか、真であるとはどういうことなのか、今の段階の上を目指さないとそれに与れないものなのか、といった風に思考を巡らして探ろうとしてしまうところがあります。
だが、本性となると...何が真で、何が偽であろうと、今はより本性的になっている、なってないかということは、さして考え巡らさなくとも、"本性的"(先験的?)に感じて来るものはないでしょうか?
私は、そこに意識の自然な流れのようなものを感じてならないのです。
これを踏まえると、ラマナが"真我探求の道"として示していた、"私は誰か?"、とひたすら尋ねてゆく道(これには、どうしても私には、尋ねる私というものが、超えられないという感じが残ってしまうのでした)という方法にも、新たな軸が開かれるようにも感じられてきます。
つまりは、意志的に尋ねようとしなくても、自然に本性に落ち着こうとする意識の流れにゆだねてゆけばいいのではないか?
このようであれば...「ただ、神のみを求めるならば、神はただちに私として"本性"として現れる」(ラマナ.マハルシ)
神に帰ることは、本性に帰ること...ラマナが真我探求の道と、もう一つ示していた、神にゆだねる、"帰依の道"も本来一つのものとして感じられて来るではありませんか?
ここには、もう、古代も近代も現代も無いくらいです。
玉城先生がもう少し存命で、近年この本が出された60年代中頃よりずっと注目を集めているラマナについて、どう考察されていただろうか、ということに思いが馳せてなりません...。
この本には、有名なところでガンディーやタゴール、ラーマクリシュナなど、主として19世紀から20世紀にかけて活躍した、現代でも宗教やスピに関心のある人なら、大概どっかで聞かれたであろう、思想家の名前は出てくるのですが、大半を占めているのは、ヴィヴェカーナンダとオーロビンド.ゴーシュについての、その思想体系の紹介と考察なのです。
ラマナ.マハルシについては、それに比べてごく短いものですが、先生が書いたものでまとめて読めるのは、私の知る限りこの本くらいではないかと思われます。
ラマナの思想は、ご存じのように、前二者に比べて全く体系的でありません。それにその格好たるや、近代云々とは程遠いと言わねばなりません。
だからあまり筆が進まなかった?、訳でもないでしょうが...私はもう、この文章に接するだけで、何とまあ、ラマナの思想を短くまとめられているのか、と改めて感じ入ってしまいまして、そのことに限らずこれは、あらゆる精神的道に関わるキモのようにも思える、と言っても過言ではないくらいなのです。
久しぶりに読んでみて、まず先生は、ほとんどのラマナの訳書で、"真我"と記しているところを"本性"と訳しているのに注目させられました。
私が最初に読んだ時(平成8年夏)は、ただの言葉の言い換えぐらいにしか感じなかったものでしたが、その言葉から醸し出される、導かれる響きの違い(これは勿論、その日本語の語感のことを言っているのであり、原語ではどうなのかは分かりません)が感じられて、これは結構大きい問題のように感じたのです。
真我というと私などは、これを読んでる私は真なのか、偽なのか、真であるとはどういうことなのか、今の段階の上を目指さないとそれに与れないものなのか、といった風に思考を巡らして探ろうとしてしまうところがあります。
だが、本性となると...何が真で、何が偽であろうと、今はより本性的になっている、なってないかということは、さして考え巡らさなくとも、"本性的"(先験的?)に感じて来るものはないでしょうか?
私は、そこに意識の自然な流れのようなものを感じてならないのです。
これを踏まえると、ラマナが"真我探求の道"として示していた、"私は誰か?"、とひたすら尋ねてゆく道(これには、どうしても私には、尋ねる私というものが、超えられないという感じが残ってしまうのでした)という方法にも、新たな軸が開かれるようにも感じられてきます。
つまりは、意志的に尋ねようとしなくても、自然に本性に落ち着こうとする意識の流れにゆだねてゆけばいいのではないか?
このようであれば...「ただ、神のみを求めるならば、神はただちに私として"本性"として現れる」(ラマナ.マハルシ)
神に帰ることは、本性に帰ること...ラマナが真我探求の道と、もう一つ示していた、神にゆだねる、"帰依の道"も本来一つのものとして感じられて来るではありませんか?
ここには、もう、古代も近代も現代も無いくらいです。
玉城先生がもう少し存命で、近年この本が出された60年代中頃よりずっと注目を集めているラマナについて、どう考察されていただろうか、ということに思いが馳せてなりません...。
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