霊性の道の中には、所謂悟りには幾つか段階があり、覚醒とか一瞥体験と呼ばれるものは、中途の段階であり、その先に真の悟りというものがあるという意味のことが説かれる向きがあります。
まず、そういう段階のようなものがあるとして、それに囚われないことが重要であるのは言うまでもありません。
大体において、こういう段階を想定したりするのは修行の道、修行者から見た場合と言ってもいいでしょう。
私は何度となく、何が真の悟りか、ということはさて置き、ただ一つ大きな段階というのは、思考次元、思いを超えて、純粋意識が開かれることを言って来ました。
そこから先の段階を目指そうにも、自分の意志想念によって進めることは出来ず、その思いを超えた神的な導きにゆだねるしかないのだ、と。
いや、その思考から離れ、超える(無くなるという意味では無い)ということ自体からして神的な恩寵に依るものなのではないか?
その覚醒と呼ばれるものが、思考を超えて純粋意識に目覚めることであるならば、それは自力の及ばない恩寵の賜物と言っていいのです。
それはある場合、仏教学者の玉城康四郎先生が“精神的爆発、茫然自失“、と呼んでいた如く、人生が一変するような著しい感覚を伴うものもあり、“囚われるな!“という方が無理とも思えるくらいなのです。
その思考を超える大きな段階の初発には、こういった著しい体験を伴うことも多いようです。
そして、玉城先生も言われるように、それも数日後には元の黙阿弥になってしまうこともよくある話です。
先生は、それが又ぶり返し(二度目以降は“初発“の時よりも規模は大きくないのが普通)、又元の黙阿弥になることを何度も繰り返していたそうですが、これは本当は黙阿弥となって消え去ってしまう訳では無いということを物語っているのでしょう。何度もそういうことがある訳なのですから!
そこで消え去るように感じるのは、その体験そのものに囚われてしまうからでしょう。
私は一度意識次元に目覚めるならば、表層では分からないながらも意識の内奥では、それは種火のようなものとして刻印されるように感じています。(それが一時の幻想に過ぎないものか否かはそれで分かるでしょう)
要するに、それが一時の爆発体験で終わったように感じるか、ずっと内奥に息付くものとして
感じるかは、こちらの理解度、理解の深浅、それをどう受容したか、によるものと思われます。
悟りの段階を云々する向きは、一時的な覚醒体験とその先の持続的な、安らいだ意識状態は別個のものとして捉えられているようですが、私はそれは一連なりのものではないかと思っています。
何にせよ、それは神的なハタラキ、恩寵から来るものに変わりは無いのです。そういうものに中途だとか、もっと進んだ段階があるとか、こちらで何かはからいを交えて判断したりするのは、ズレているという他ないでしょう。与えられなければ最初から何も無いのですよ!
そういう体験が自分の意志努力で成されるものと思うならば、そりゃ幻と消え去るしかないでしょう。“出来た、得た、達した!“、と思うのが幻想に過ぎないのですから!
それについての理解、受容とは、正にそれは、我々の思い、力を超えた、神的なものから来る!、ということに尽きるのではないでしょうか?!
そのことと切り離された体験のように捉えるから消えてしまうように感じてしまうのです。
囚われるとは、思いに囚われるということであり、神のハタラキ、恩寵に与ることこそがそれから自由にされることに他なりません。
どこまでもその超えた方に意識を向け、思いを開いていることが肝心なのです。
所謂悟りの道には、思いを超えるという大きな関門の前には、幾つかの段階的な進路というものもあるかもしれません。
しかし、その超えられた先には、諸々の囚われを超えて、神への全託の道があるばかりなのでしょう!...
まず、そういう段階のようなものがあるとして、それに囚われないことが重要であるのは言うまでもありません。
大体において、こういう段階を想定したりするのは修行の道、修行者から見た場合と言ってもいいでしょう。
私は何度となく、何が真の悟りか、ということはさて置き、ただ一つ大きな段階というのは、思考次元、思いを超えて、純粋意識が開かれることを言って来ました。
そこから先の段階を目指そうにも、自分の意志想念によって進めることは出来ず、その思いを超えた神的な導きにゆだねるしかないのだ、と。
いや、その思考から離れ、超える(無くなるという意味では無い)ということ自体からして神的な恩寵に依るものなのではないか?
その覚醒と呼ばれるものが、思考を超えて純粋意識に目覚めることであるならば、それは自力の及ばない恩寵の賜物と言っていいのです。
それはある場合、仏教学者の玉城康四郎先生が“精神的爆発、茫然自失“、と呼んでいた如く、人生が一変するような著しい感覚を伴うものもあり、“囚われるな!“という方が無理とも思えるくらいなのです。
その思考を超える大きな段階の初発には、こういった著しい体験を伴うことも多いようです。
そして、玉城先生も言われるように、それも数日後には元の黙阿弥になってしまうこともよくある話です。
先生は、それが又ぶり返し(二度目以降は“初発“の時よりも規模は大きくないのが普通)、又元の黙阿弥になることを何度も繰り返していたそうですが、これは本当は黙阿弥となって消え去ってしまう訳では無いということを物語っているのでしょう。何度もそういうことがある訳なのですから!
そこで消え去るように感じるのは、その体験そのものに囚われてしまうからでしょう。
私は一度意識次元に目覚めるならば、表層では分からないながらも意識の内奥では、それは種火のようなものとして刻印されるように感じています。(それが一時の幻想に過ぎないものか否かはそれで分かるでしょう)
要するに、それが一時の爆発体験で終わったように感じるか、ずっと内奥に息付くものとして
感じるかは、こちらの理解度、理解の深浅、それをどう受容したか、によるものと思われます。
悟りの段階を云々する向きは、一時的な覚醒体験とその先の持続的な、安らいだ意識状態は別個のものとして捉えられているようですが、私はそれは一連なりのものではないかと思っています。
何にせよ、それは神的なハタラキ、恩寵から来るものに変わりは無いのです。そういうものに中途だとか、もっと進んだ段階があるとか、こちらで何かはからいを交えて判断したりするのは、ズレているという他ないでしょう。与えられなければ最初から何も無いのですよ!
そういう体験が自分の意志努力で成されるものと思うならば、そりゃ幻と消え去るしかないでしょう。“出来た、得た、達した!“、と思うのが幻想に過ぎないのですから!
それについての理解、受容とは、正にそれは、我々の思い、力を超えた、神的なものから来る!、ということに尽きるのではないでしょうか?!
そのことと切り離された体験のように捉えるから消えてしまうように感じてしまうのです。
囚われるとは、思いに囚われるということであり、神のハタラキ、恩寵に与ることこそがそれから自由にされることに他なりません。
どこまでもその超えた方に意識を向け、思いを開いていることが肝心なのです。
所謂悟りの道には、思いを超えるという大きな関門の前には、幾つかの段階的な進路というものもあるかもしれません。
しかし、その超えられた先には、諸々の囚われを超えて、神への全託の道があるばかりなのでしょう!...
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