人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと瞑想は切り離せない!

2022-04-04 10:07:24 | 祈りと瞑想
祈りと瞑想は切り離すことが出来ない!...
これは私には極めて当たり前のこと、自然なことなのです。
ここで、特にことわりがなくとも、祈りについて、瞑想について触れていることにはそういう含みがあるということです。
座禅でも瞑想でも、それのみでやろうとしても私には、何も出来ないし、何も始まってこないし...そうですね、“瞑想しよう”(いやなことを思い出しそうです)とか、“考えるのをやめないと...”なんてひたすら考えているだけになってしまいそうです。
それで呼吸法とか、どっかのチャクラに意識を集中するとか、テクニックに頼ったりするのでしょうが、私にはそういう気根が無いのか、かえって注意力が散漫になり、又それは、思いをますます強めてゆくことのように感じられてならないのです。
“考えている自分からは何も始まってこない!”
だから、思いを超えたものに意識を向けなければならない...それが祈りに他なりません。
順序としては、こちらが先ということになりますが...むくむくと、形なき命、現臨が立ち上し始めると...もう、祈りと瞑想の区別は付かなくなります!
これは、意識が思考マインドから離れ、自動的、受動的になってゆくプロセスのことを言っているのですが、現臨にあって祈りと瞑想は一つとならざるを得ない、ということです。
たとえば今、漠然と瞑想でもしようか、と思ったりして...これはそう思っているということなんですが、あっという間に、意識が自動的に動く感じがありまして、そして又パッと何かが開かれる感じが...と、これはごく自然にそうなることなのです。
かように、祈りと瞑想を別々に捉えることが私には不思議でならないのです。
アビラの聖テレサや、十字架の聖ヨハネなどのキリスト教神秘思想では、瞑想的なことをよく観想と呼んだりしますが、ごく普通にそれは祈りと区別されずに理解されていると思います。
特にその観想の道において、それが思考の働きがまだ及ぶ、能動的段階からそれを超えた、受動的段階に移行した場合にあっては区別するのは不可能でしょう。
キリスト教においては、神とか超越的存在が受け入れられている、信じられているということは言えるでしょう。
しかし、観念的に信じられているだけで、それが強められることはあっても、思考が超えられるということはないのです。
神秘家たちが語るような、自己の内なる霊性が開かれることもありません。
超越的なものと実存的なものは切り離すことが出来ない!
祈りと瞑想が切り離せない、ということはこのことに対応していると感じずにおれません!...


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