人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

導師としての神

2023-02-24 09:35:06 | ガイダンス
私はここで神のことを何度も書いています。
別に神というものに囚われる必要は無いんですけれども、自分の思いを超えた、超越者、他者的なものとしてそういうものを言い表しているのです。
この理由も何度も触れているように、思っている私のみからは、思いを超えることも、そこにある意識次元に開かれることも、目覚めることも、光が差し込む(エンライトメント~悟り)ということも無いからです。
普通に考えても分かることじゃないですか?!...しかし、こんな肝心なことが案外自覚、認識されてないようなんですね。
我々は、西田哲学で言っているような絶対他者、絶対無になければ、向き合わなければ、ゼッタイに悟り的な無性、空性に与ることが出来ないのです!
そうでなければ、”私は無になりました!、何にも思ってません!、私は悟ったのです!”、と思い込むだけなのです!
こういう人間てのは、実に鼻つまみもので、異臭プンプンじゃありませんか!
むしろ、普通の人間よりもうんと自我性が強固に思えて来ますよ!...こういうのを魔境と言うのでしょう?
思おうとする、為そうとする自分が先走ってしまい、”神的なものにあって”、ということが抜け落ちるからそうなってしまうのです。
だから、”悟りだ、覚醒だ、完全覚醒だ(バカ言ってんじゃねえ、っての!)”、なんてことよりも自我的な思いから離れることの方がはるかに重要なことなのです。
だからだから、自分からはどうにもならないから、神にあって、神に思いを入れる、ということがある訳です。私”が”悟った、なんだというのは余計なことなのです。
悟るためとか、無になるためとかに囚われるのでなく、常に神に意識を置いているだけで平安でいられる...現実に、人一倍自意識が強い私には分かる...私”が”という線からはどうしてもそうなりません!
どこまでも、神に在ることが主眼なんです。
この辺りのことは、私には西田哲学なんかは難しくて手につかないでしょうが、五井先生の”消えてゆく姿”、又特に小池先生の”十字架”の教えに接したことがとても大きかったのです。
こう考えると、精神的な道においては、”導師”の存在というのは不可欠だと思いますね。
まあ、普通は導師と言えば、当たり前に肉体を持った人間のことなんでしょうけど...
ラマナ.マハルシなんかは、そうとは限らないと言っております。
そのとおり!...あなたの現前に絶対他者、絶対無として臨んでいるものこそは、導師ではありませんか?!...見えざる導師!
”見える”導師には、”私は完全に悟っているんです!”、なんていうエセもいっぱい居て迷わされますが、絶対他者として現臨する、導師としての神は、出会った瞬間に思いを超えて、その宿命的なものを示されます。それ自体がエンライトメントと言ってもいいのです!
だからこそ、いつも神に思いを向け、神に在ることが大事なことなのです!

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