何度も触れているように、昭和54年初頭、突如意識がどこかへ飛んで行ってしまうような変調に見舞われ、それが私に神的な現臨が芽生える端緒となったのでした。
この時は、とにかく精神的に不安定でして、そんな時はもう祈るしかないのです。
そう、やっぱり、祈りからああいう感覚が発現したと言えるでしょう。
それともう一つ、特にその不安定な状態に功を奏したものに、当時割りと熱心に通っていた中国の宗教結社、「道院紅卍字会」に伝わる“先天の坐法“と言われる修法がありました。
この理由は、座禅などでもそうですが、心持ち丹田の辺りとか下半身に意識が向けられるためだと思われます。
そのやり方はあまりにもシンプルなためか、そこの関係者、ことに長年常駐理事だったNさんからもこれといった指示は受けて無かったのです。
前年の暮れ辺りからその年の3月くらいまで、ほぼ毎日約15分くらい(初心者は16分を目安にするという規定がある)続けていました。
すると...特に年頭に起きたあの件から顕著になったのですが、その坐法で膝に軽く手を置いてやるのですが、その手の辺りからポカポカと暖かみを覚えるようになったではありませんか!
これは単純な物理的、肉感的な暖かさではなく、かと言って、“そう思った“ものでも勿論なく、肉感に近い内的感覚(私は現臨感覚とか、物理的感覚を超えたものをすべてこのように総称しています)のような、語るだに微妙なものなのです。
これに加えて、私の場合忘れてならないものに、同じく道院に伝わるいくつかの神呪があります。
私のポリシーとして、ある特定の団体にしか通用しない教えとかメソッドなどに囚われない、というのがあり、実際ほとんど、それに依拠しないと何かが発現したりしないということも無いのですが、これは別です!
座禅や瞑想をやったことのある人なら宿命的に、雑念が起こって来たらどう対処したらいいか、という問題を持つものですね?
これはその方便として、私がその呪文を心の中で称えるということからやり出したものなのです。Nさんにそのことを告げると、“そりゃあ、いい!“とのことでした。
で、その呪文とはどんなものかって?...別に秘密事項になってる訳でも無い(少なくともその当時は)のですが、そいつをここで教えるのは何かと問題がありそうなので、関係者に聞いたらきっと教えてくれるでしょう?(私は当時まだ未会員だったのですよ!)
よく考えてみれば、当時の私のその修坐は、“念呪“との双修だったと言えるのです。
実は、先の内的感覚と言うのは、”坐“によるものか、“念呪“によるものか判然としない、と言ってもいいくらいだったのです。
そのポカポカ気が巡る感じは坐によるものだとして、それと切り離せないものとして、ある種の感応道交のようなものがあり、これは念呪によるものと言えるかもしれません。
その感応というものこそは、現臨感覚に通ずるものなのですが...
難しい漢字で記されていて、意味の分からないその呪文の言葉から何故そのようなことが発現するのかは...サッパリ分からない!
ただ、道院ではその修坐が特に重んじられていて、その呪文のことには、意外にもあまり言及されることは無いのです。
しかしながら、それは言うなれば、それはあらゆる宗教的伝統に伝わる祈り~念仏、天津祝詞、ズィクル(イスラム)などに当たるものと言えるでしょう。
もしかしたら...道院では”秘中の秘”なので、あまり語られることは無かった!...かもしれない?
私史でもあまり語られることは無いですが、私にはけっして忘れられないものには違いありません。
この時は、とにかく精神的に不安定でして、そんな時はもう祈るしかないのです。
そう、やっぱり、祈りからああいう感覚が発現したと言えるでしょう。
それともう一つ、特にその不安定な状態に功を奏したものに、当時割りと熱心に通っていた中国の宗教結社、「道院紅卍字会」に伝わる“先天の坐法“と言われる修法がありました。
この理由は、座禅などでもそうですが、心持ち丹田の辺りとか下半身に意識が向けられるためだと思われます。
そのやり方はあまりにもシンプルなためか、そこの関係者、ことに長年常駐理事だったNさんからもこれといった指示は受けて無かったのです。
前年の暮れ辺りからその年の3月くらいまで、ほぼ毎日約15分くらい(初心者は16分を目安にするという規定がある)続けていました。
すると...特に年頭に起きたあの件から顕著になったのですが、その坐法で膝に軽く手を置いてやるのですが、その手の辺りからポカポカと暖かみを覚えるようになったではありませんか!
これは単純な物理的、肉感的な暖かさではなく、かと言って、“そう思った“ものでも勿論なく、肉感に近い内的感覚(私は現臨感覚とか、物理的感覚を超えたものをすべてこのように総称しています)のような、語るだに微妙なものなのです。
これに加えて、私の場合忘れてならないものに、同じく道院に伝わるいくつかの神呪があります。
私のポリシーとして、ある特定の団体にしか通用しない教えとかメソッドなどに囚われない、というのがあり、実際ほとんど、それに依拠しないと何かが発現したりしないということも無いのですが、これは別です!
座禅や瞑想をやったことのある人なら宿命的に、雑念が起こって来たらどう対処したらいいか、という問題を持つものですね?
これはその方便として、私がその呪文を心の中で称えるということからやり出したものなのです。Nさんにそのことを告げると、“そりゃあ、いい!“とのことでした。
で、その呪文とはどんなものかって?...別に秘密事項になってる訳でも無い(少なくともその当時は)のですが、そいつをここで教えるのは何かと問題がありそうなので、関係者に聞いたらきっと教えてくれるでしょう?(私は当時まだ未会員だったのですよ!)
よく考えてみれば、当時の私のその修坐は、“念呪“との双修だったと言えるのです。
実は、先の内的感覚と言うのは、”坐“によるものか、“念呪“によるものか判然としない、と言ってもいいくらいだったのです。
そのポカポカ気が巡る感じは坐によるものだとして、それと切り離せないものとして、ある種の感応道交のようなものがあり、これは念呪によるものと言えるかもしれません。
その感応というものこそは、現臨感覚に通ずるものなのですが...
難しい漢字で記されていて、意味の分からないその呪文の言葉から何故そのようなことが発現するのかは...サッパリ分からない!
ただ、道院ではその修坐が特に重んじられていて、その呪文のことには、意外にもあまり言及されることは無いのです。
しかしながら、それは言うなれば、それはあらゆる宗教的伝統に伝わる祈り~念仏、天津祝詞、ズィクル(イスラム)などに当たるものと言えるでしょう。
もしかしたら...道院では”秘中の秘”なので、あまり語られることは無かった!...かもしれない?
私史でもあまり語られることは無いですが、私にはけっして忘れられないものには違いありません。
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