人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと平安

2020-04-27 11:03:38 | 祈りと瞑想
"どうしようもない苦悩を抱え、不安で心を苛んでしまった時、祈ることも出来ないほどに...こんな思いが過る...
そう、祈って一体何になるだろうか?
祈ることで病が治る保証などない
貧困から救われる保証はない
勿論、世界が平和になる保証もない..."

私自身、そんな状態に陥って、そんな気持ちを持ったこともあります。
しかし、自分で言うのもおかしいですが、騙されたと思って祈ってみる...
すると...どういう訳だか、いつの間にか苦悩から解放されてしまうことは何度も経験しています。
その問題が解消される訳でもないのに、です。
このことから、祈りにより平安が与えられることは間違いないことなのですi
そして、苦難、苦悩とは、実にその要因となる種々の問題ごとにあるのではなく、正に苦悩する思いにあるということが分かるでしょう。
これは祈り自体によりそうなるということでなしに、神的なものに意識が向けられることでそうなるということです。
ですから、ここで祈りと言っているものは、通常捉えられているものよりもっと幅広く、ある種の瞑想と言ってもよく、ごく端的に"意識がそっちに向いちゃったこと、"と言ってもいいのです。
でも、それだと訳がわからんことになるので、便宜的に祈りと言っているのです。
平安が与えられるということは、自分の心でなだめるようなことでは決してありません。自分で心持ちを変えるというようなことでなく、思いの外、思いを超えたところからくる、ということです。
これは実に神的なハタラキが臨むということに他ならないのです。
説明すればするほど難しくなりますけれど、私は自分で言うのもヘンですけど、そりゃあここで書いてきているように、随分そうした消息について経験させてもらっていますよ。
だけどねえ...思い返せばワタシャ、最初っから神に意識を向ければ、それが臨んできて平安が与えられる、ということは知らされていたのですi
ただ、長い間そのことを自覚していなかった、意識的になっていなかっただけです。
そして、どうしてそんな風に経験させてもらっていたのかは、もう自明なことです。
惹かれてやまないものがあるから...言い換えればそこに愛と平安があるからです。
これは今、嬉々としてそういう道を歩まされている人には説明を要しないことでしょう。
勿論、こういうのっぴきならない時節を迎えて、病や貧困が解消されるに越したことはないでしょう。
又、得てして、心が安らぐことにより、事態も改善されたりするものでもあります。
でも、祈り、神に思いを満たすことの本質的なことはそういうところにあるのでしょう。
この世界的規模の日蝕にあって、誰かが救われ、誰かが助かり、ふるいにかけられるとか、そんな神のみぞ知るようなこと誰が分かるもんですかi
見かけ、助かっても助からんでも、平安にある人、神と共にある人こそが根本的に助かっている人ではないか?
どういう祈り方、神的なものにつながるやり方というようなことは、それはもう各人が最善と感じているものにまかせられるでしょう。
ただ、私は何度も言うように神的なものは、人の思いを超えているものだ、と言いたいだけです。
病というものが"回復"という人の本来性に帰る契機となるように、一人一人が神と共にある本来性を取り戻されることを祈るばかりです。

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