人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人間存在の原態に帰る

2024-04-23 09:28:59 | 求道、探究
精神的に落ち込んでいる、迷っている、トラブっている時など、ほとんどの場合、考え、為そうとしている自分だけに意識が向けられているようです。
言い換えると、そんな時意識は、神的なものと共に無く、その現臨に無い状態になっていることが分かります。
自分に意識が向けられている?...自意識?
自分自身に意識を向けることが大事だ、といつも言っていますが、こういう場合は度々触れているように純粋に自分自身を意識しているのではなく、他人、世の中の目に映り、判断されているであろう自分像に向けられているのです。
それが自我意識と呼ばれているものなのですが、その状態は、自分を超えたものと切り離されているのです。
本来、それ無しにはこの自分自体が存在出来なくなるものであるにも関わらず!...だから迷い、トラブるのも当然ではありませんか?!
そうでない時は、安らぎ、幸福で居られるのです。自我意識の思いから解放されているのですから!...(当たり前のような、驚くべきことを書いている気がするのですが!...)
それとも、ダメな悪い自分のままだと神の怒りに触れ、裁きを受けるのですか?
だから、誰がそう言っているのか、ってんです!
誰かから色を付けられたものでなく、そのまんまの、ありのままの自分を見て、受け入れるのですよ!(これは、何の色付けされていない、ありのままの神に置き換えてもいいのです!)
それが真我に目覚めることにつながるのです。ホントは真も、ウソも無いそのまんまがホントの自分なのでしょうが...
しかし、自意識でいっぱいの精神では、そのホントの自分を見ることが出来ません。
というか、自分で自分の顔、姿を見ることは出来ないのですね。これは実に大きな意味を持っていると言わねばならないでしょう。
自分という実体は本当は分からないのです。鏡を見れば分かるかって?
私は鏡に映ったものなんか、完全に信用出来ません!...それは反射された像なんだ!...他者に映った像と同じではないか?
何らの色付けされていない私。そこに実体はあるのだろうか?、映った見た目とは別に実存感覚というものはあるのではないでしょうか?
そして、そこには目には見えない、自分を超えたものも感じられないでしょうか?
ホントの私感覚は、そのものと切り離されていないのです!
しかし、それは見ることは出来ない!...しかし、しかし感じることは出来る!
自分で自分自身を見ることが出来ないし、そのためか意識することも難しいです。
だから、神に意識を向けたらいいのです。(というより、それはいつも自己に現前、現存しているのであるが...)
そのものと一つである私。もはや、考え、為そうとする自分だけの私ではない私。それは、全く自然に、無理なく、障りなく...そうあるべきように信じようとするのでもなく、そうなるもの...
これが本来の人間存在の原態なのではないか?
考え、為そうとする自分が居て、それから神とのつながりを求めるというよりは、その本来性に帰るということがあるばかりなのでしょう!...

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