人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と意識の動き

2023-05-10 10:01:12 | 現臨、ハタラキ
宗教、精神的な道を歩む人なら、どうやったら悟りなり救いに与ることが出来るか、ということに関心が向くことでしょう。
そうして色々な本を当たってみる。
私も若い時、ヨガ修業の本などをかじったことがあります。そこに足や手の組み方とか、呼吸法などのことが事細かく書いてあるのですが、どうも読んでいて、そうやって何か確信に触れる、という気がして来ません。
そんな本をかじった程度で、本格的に取り組まなければ、そんなことに与れる訳ないではないか!と思われるでしょうが、現実に意識がそのように動かないんだからしょうがないのです。これ、私の極度のメンドクサがりのためだけではなさそうです。
意識が動くかどうか...これは何によらず、生きる上で極めて大事な、根本的なことでしょう。
そしてしばらくして、手島郁郎先生の書いたもの、先生が敬愛していたインドの聖者、サンダー.シングの本に触れ、理由はよく分からない、具体的な方法のことは特に書かれていないけれど、何か惹きつけられるもの、何かが開かれる感じを覚えたのでした。
これは又キリスト教関係のものとの最初の出会いでもあったのです。昭和53年春から夏頃にかけてのことです。
人によっては、ある方法に取り組んでいれば、今は辛抱でもそのうち確信に至るだろう、とやり続けるのかもしれませんが、私は”気がして来ない”、ことはやりません。やっても続きません。
意識を集中しなければ!、ったって、出来ないし、私には無駄ですよ!
意識を集中しなくたって、おのずと動く(それが意識が集まるということ)方に自然と向かわせられるのです。
ということは、もう最初からその道を歩む原動力、推進力みたいなものは与えられているのです。それは、歩む先に、その目標として幸福や安らぎがあるのではなく、もう過程の段階からその”匂わせ”のように感じるあるものです。具体的に何かをやっているということもなく、ただ祈り心地になっているだけのようでしたが...
この感じを覚えるようになってからは、宗教、精神世界には付きものの、前世や死後の世界とか、確かめようの無い、空想ごとにあまり囚われなくなりました。
もっと、根本的なものに意識が向けられるからです。これが”集まる”ということなのです。
意識が動くということは、漠然と思い描いたりすることじゃありません。とはいえ、私なども最初から思念世界と意識世界の違いが分かっていた訳じゃなく、ともすれば、思い、考えることに流されたりします。
だから、このことを感じたらもっと意識してみるのです。
現臨という呼称は、主にキリスト教方面で、”神、キリスト、聖霊の現臨”、という風に言い慣らわれているものから借りているのですが、確かにそこに多く伝えられるものはありますが、如何なる宗教にも無きゃおかしいもので、無ければ完全に形骸化してしまうことでしょう。
その意識の動きには、やはりそくそくと何かが臨むのが伝わる感じがあるのですね。
これは、後になってハッキリ認識されるようになるのですが...
現臨感覚というものの萌芽的なものは、既にこの頃与えられていた、と今から思えばハッキリ感じています。
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