人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

そのものにあって

2021-11-03 09:56:41 | 求道、探究
"愛、平安、神的な恩寵に与るには、敬虔な心にならなければならない、心をオープンにしなければならない"、なんてことを言葉では言ったりするのですが...
現実問題として、そうなれるものなんでしょうか? 
又、"全心全霊で..."なんて言いますが、"私は全心全霊でやってますi"、なんて自分で言っている人はまず、自分でそう思っているだけなんでしょう。自分からそんなことは出来ない、やれる訳がないのです。
あるいはそういうポーズを作ることは出来るかもしれません。
しかし、さらに心が砕かれねばならない、とかってなると、もう誤魔化しなど利きません。しかし、そんなことがi...そんなことになってたらもうそれに与っていることでしょう。
これを踏まえれば、本当は敬虔な心になっていたり、心が開かれていたら、その思いを超えた、何がしかのものを感じられるはずなのです。
つまり、ここにそうしなければならない条件なんて無いってことです。
すると、"そうか、何もしなくてもいいのか?"、ってことになりそうですが、何もやらなくてもいいけど、そこにはある心的、意識状態というものがある、ということを言っているのです。
しかし、それを言い表す言葉が無いi...人間は何か思っているか、行動してるしかないのか?..."意識している"...それは動詞にゃならんでしょ?
"OOを意識する"、という場合には、そういうニュアンスも感じられますが、私がいつも言及しているのは、"OOにあって"ということなのです。
いずれにしても、そこには他動的な何かがあるということを言っているのです。
そして、OOにあって、ということには、自己とそのものとが分離してない、一如になっているということが伝わってこないでしょうか?
そこには、私がどうこうして、しかる後に...とか二段構えのものが無いi
そのものとは、私を在らしめるもの...思ったり、やろうとする私に先立つものです。
思おう、やろうとする前に、思わされ、やらされるものがある....
祈り心、敬虔な心になるということは、けっして倫理道徳の問題じゃありません。そういうものならいくらでも誤魔化しが利くでしょう。
そのものの現臨を感じたなら、いやでも頭を垂れずに、手を合わせずにおれなくなる...そういう心境になることと、それに与ることは同時の事態なのです。
これはいくら理屈を学んだって分かるものじゃありません。だけどそういう感性は無い訳じゃないでしょう? どっかに置き忘れているのでしょう?
頭じゃなくて、胸に聞いてみれば何か感じられませんか?

秋ですねi
コメント
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