謎の秘教団体(?)大調和協会の命位様という人は、全く世に知られていません。
従って、おそらくこの方について触れている人は、私以外にほとんど居ないと思われます。
それも、この方の本当の素晴らしさというのは、実際に深く交流しなければ分からないでしょう。
私は何度もそういう機会に遇することが出来、その奇縁を感謝せずにおれません。
私の囚われることなしに幾つかの宗教的、精神的団体と関わって来たことは、その交流の中で早くから知られていたのですが、ある時、"私はどういう道を行ったらいいでしょうか?"、という意味のことを訊いたことがありました。
これは実は、本心からというのでなく、それに対して命位様がどういうことを言われるか、知りたくて訊いてみたようなのでした。
すると...「あなたは、"私がこういう道を行きなさいi"と言ったら、"はい、そうします"と言って、従うような人じゃないでしょi」という意味のことが返ってきました。"あー、見透かされたあi"
そして、「あなたは知っているはずですi、あなたを導いているものをi、あなたは、その声にしか従おうとしないのでしょう?、どこまでもその導きのまにまに、自由に、徹して行きなさいませi」ということを言われ、その言葉に深く同調し、揺すぶられました。
それは頭で納得したということでない、ズシンと揺すぶられるものがあったということです。
そういうものを今も尚感じられるかどうかが肝心なことなのです。
これは、命位様が私の心の中を読んでいるとかそういうことじゃありません。
人の業的想念のことなどを当て物式に示されたとて、どうなると言うのでしょう。そんな地獄的なものじゃないi、それは、私の本心にしっかりつながることを示されていたのです。
命位様との交流では、もっぱらこのようなことが行われていたのです。
思えば、私が日頃書いている、例えば現臨に包まれる感じ、超越的なものと内在的なものが不可離である感じなど、ほとんどはその中で身に覚えさせられていたことだったのです。
それがどういうものかという抽象的な、概念的な説明ではなく、具体的な感覚として伝えられて来たものに他なりません。
つまり、命位様という方は、口で物語るのでなく、存在で物語る人であったのです。
生けるハタラキの通路となるご存在であったのです。
その書き物なども幾つか残ってはいるものの、そのハタラキが現実に臨むことに接するのは、直に向き合った者でないとおそらく分からないでしょう。
その息吹に与ることを通して、その得難い縁を思い出さずにいられません。
否、それは過ぎ去った記憶ではありません。生きたメモリーなのです。
従って、おそらくこの方について触れている人は、私以外にほとんど居ないと思われます。
それも、この方の本当の素晴らしさというのは、実際に深く交流しなければ分からないでしょう。
私は何度もそういう機会に遇することが出来、その奇縁を感謝せずにおれません。
私の囚われることなしに幾つかの宗教的、精神的団体と関わって来たことは、その交流の中で早くから知られていたのですが、ある時、"私はどういう道を行ったらいいでしょうか?"、という意味のことを訊いたことがありました。
これは実は、本心からというのでなく、それに対して命位様がどういうことを言われるか、知りたくて訊いてみたようなのでした。
すると...「あなたは、"私がこういう道を行きなさいi"と言ったら、"はい、そうします"と言って、従うような人じゃないでしょi」という意味のことが返ってきました。"あー、見透かされたあi"
そして、「あなたは知っているはずですi、あなたを導いているものをi、あなたは、その声にしか従おうとしないのでしょう?、どこまでもその導きのまにまに、自由に、徹して行きなさいませi」ということを言われ、その言葉に深く同調し、揺すぶられました。
それは頭で納得したということでない、ズシンと揺すぶられるものがあったということです。
そういうものを今も尚感じられるかどうかが肝心なことなのです。
これは、命位様が私の心の中を読んでいるとかそういうことじゃありません。
人の業的想念のことなどを当て物式に示されたとて、どうなると言うのでしょう。そんな地獄的なものじゃないi、それは、私の本心にしっかりつながることを示されていたのです。
命位様との交流では、もっぱらこのようなことが行われていたのです。
思えば、私が日頃書いている、例えば現臨に包まれる感じ、超越的なものと内在的なものが不可離である感じなど、ほとんどはその中で身に覚えさせられていたことだったのです。
それがどういうものかという抽象的な、概念的な説明ではなく、具体的な感覚として伝えられて来たものに他なりません。
つまり、命位様という方は、口で物語るのでなく、存在で物語る人であったのです。
生けるハタラキの通路となるご存在であったのです。
その書き物なども幾つか残ってはいるものの、そのハタラキが現実に臨むことに接するのは、直に向き合った者でないとおそらく分からないでしょう。
その息吹に与ることを通して、その得難い縁を思い出さずにいられません。
否、それは過ぎ去った記憶ではありません。生きたメモリーなのです。