人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

共感と根付くこと

2021-11-17 12:03:58 | 求道、探究
私のように複数の教師に共感し、その宗教的グループと関わったことのある人なら、例えば、こっちの教えとあっちの教えは違うことを説いていて迷ってしまった、という経験があると思います。
私にも勿論ありましたよ。そういう時、頭の中で色々考えていて、考えて結論を出そうとしているんですね。
んなこた、自然(じねん)に意識が向けられる方に従ったらいいんだ、って今なら言えるのですけど...
これは言うまでもなく、自分に"そうせしめるもの"が根付いていない場合の話です。
じゃ、今度はその自分の中から何かの火種みたいなものが感じられて、それとある教えと合わないように感じてしまったら?
これは、自分がそれまで対象にして信じていたものが、自分の中から感じられてくるものによって、揺さぶられている状態と言っていいでしょうが、本当に根付いたものであるなら、選択の余地など無くなるはずです。
現実に、意識がただ観念的に信じているものに向けられることは無いでしょう。
だから、そういう信者が、精神的目覚めに与ることはまず無いと言えるのです。
思いを超えたところからもたらされるものは、信念とか信仰といったものを超えているものだから...
しかし、私はここで、単純にあれか、これかどっちかでなければならない、ということを言っている訳じゃありません。
それによってその教師、グループと離れることになるか、どうかということは、各々の生き方というか因縁次第によるでしょう。
しかし、自分が何に共感し、何が根付いているか、考えている自分からは分からないものです。本当は、その共感したものと、根付いているものは根底ではつながっているのかもしれないのです。
でなきゃ、そもそも共感するということも無いのではないでしょうか?
ただ、表向き、外向きに表された教えというものは、相対的現実の制約を受け、時にはその本来性から変質してしまうこともあったりなど、変易というものがどうしてもあります。
それについて、あれこれ思い巡らしているこっちはアチコチ分裂するし...
色々考え、迷っているのなら、自分の信念、主義みたいなものは一先ず脇へ置いて、共感したものを感じてみる...これは、意識を向けるということとほぼ同じことです。
(あのね、こういうことは書いている私自身も今、現実にそうなさしめられていることなんですよi)
いやあ、共感することと、根付いたものというのは、何が違うのか分からなくなって来たではないかi...諸々の思いを超えて...
それは考えたって分かりゃしません。そう感じられてくるのです。
私は最初、共感したことは、だんだん根付くようになる、なんてことを書こうとしていたのですが(実際にそういうこともあるんでしょうが...)、共感したことは、最初から根付いていた(i?)...そう感じられる。
もし、そういうものを感じていて、どっちに赴こうとしているか、といったら...どっちかかもしれないし、どっちでもいいのかもしれません。
どっちにせよ、自分の奥に根付いているものを抜きにしたら、本心にウソをつくことであり、私は私自身で無くなるだけでしょう。
実にそういうこと自体が導きであり、神的なもの...すべての私なのですから...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする