スピ界隈に忘れた頃に聞かれる言葉..."私はいないi"
このノンデュアリティの根本的教えってまだ大上段から語られていたんですね。
今じゃその方面の教師ってイメージが薄れた、某大御所ブロガーの記事にあったんですけど...
"あなたは個人として存在しているのでなく、全体の表現として存在しているのです...こういう真理は、まだ知識レベルでしか関心が持たれてないようです..."って、またぞろって感じですが、当たり前でしょi、そういう言葉を突きつけられたら頭で分かろうとするっきゃないでしょ?
大体、何で、"私があったら"いけないんでしょうか?...そうは言ってないみたいですけど、"私という個人がある感はそうそう落ちてくれない"、とヘンな風に誘導してますよ。
要するに、こういう教えというのは、個我(というものがあるとして)に囚われることで、生きづらくなっている、と感じてる人に向けられているのでしょう?
そう感じてない人には、"真理はこれっきゃないi"、みたいに決めつけられたら反感を買うのも当たり前の話でしょ?
そして、"私はいない"ということの真理性というものは、現実にそう感じられてこそ、頭だけでなしに頷けることなのでしょう。
それは、考えている私からはどうしても無理ですi...そう感じさせる、そう在らしめるものなしでは...
と、いうようなことを改めて書いているんですけど...
こういう言説に接していつも思い出されるのです。ちょうどタイミングが重なりまして...
"人間は個として存在しているのではないi"...こういう教えは、もう40年以上も前、知られざる秘教団体、大調和協会で初めて知らされたのです。
その言い回しは、原理主義的なノンデュアリティと異なって、そこには個として"のみ"あるのではない、という含みがあったのですが、私は長いこと、そのことを理解しようと、苦闘するように考え続けていたことがあったのです。
バカみたいなことだったんですけど...若かったなあ...なーんてi
だけど、そういう無駄とも思える観念の堂々巡りも、命位様との交流で一辺で覚めさせられたことは何度もありました。(何度も、ということはそういう状態が定着したことは無かった、ということなんですけど...)
それは、上記、"感じさせるものに出会った"、ということを裏付けるものではあったのですが、協会と私の関係は、命位様との関係なしには絶対に開かれなかった、と改めて思わされるのです。
このノンデュアリティの根本的教えってまだ大上段から語られていたんですね。
今じゃその方面の教師ってイメージが薄れた、某大御所ブロガーの記事にあったんですけど...
"あなたは個人として存在しているのでなく、全体の表現として存在しているのです...こういう真理は、まだ知識レベルでしか関心が持たれてないようです..."って、またぞろって感じですが、当たり前でしょi、そういう言葉を突きつけられたら頭で分かろうとするっきゃないでしょ?
大体、何で、"私があったら"いけないんでしょうか?...そうは言ってないみたいですけど、"私という個人がある感はそうそう落ちてくれない"、とヘンな風に誘導してますよ。
要するに、こういう教えというのは、個我(というものがあるとして)に囚われることで、生きづらくなっている、と感じてる人に向けられているのでしょう?
そう感じてない人には、"真理はこれっきゃないi"、みたいに決めつけられたら反感を買うのも当たり前の話でしょ?
そして、"私はいない"ということの真理性というものは、現実にそう感じられてこそ、頭だけでなしに頷けることなのでしょう。
それは、考えている私からはどうしても無理ですi...そう感じさせる、そう在らしめるものなしでは...
と、いうようなことを改めて書いているんですけど...
こういう言説に接していつも思い出されるのです。ちょうどタイミングが重なりまして...
"人間は個として存在しているのではないi"...こういう教えは、もう40年以上も前、知られざる秘教団体、大調和協会で初めて知らされたのです。
その言い回しは、原理主義的なノンデュアリティと異なって、そこには個として"のみ"あるのではない、という含みがあったのですが、私は長いこと、そのことを理解しようと、苦闘するように考え続けていたことがあったのです。
バカみたいなことだったんですけど...若かったなあ...なーんてi
だけど、そういう無駄とも思える観念の堂々巡りも、命位様との交流で一辺で覚めさせられたことは何度もありました。(何度も、ということはそういう状態が定着したことは無かった、ということなんですけど...)
それは、上記、"感じさせるものに出会った"、ということを裏付けるものではあったのですが、協会と私の関係は、命位様との関係なしには絶対に開かれなかった、と改めて思わされるのです。