"神はロゴスである"
昨日、"言葉はある内実を伝える単なる表徴にすぎない..."みたいなこと言って、何でそんな決めつけたようなことを言うのかi、...って別に定義などするつもりはありません。
これは、もうずっと言い続けていることで、極めて我々の実存に関わることなのです。
言うまでもなく、神は何であるかは分からないですよ。分からないものは想像することしか出来ません。先人が残した教えとか、教典に書かれた言葉とかに依拠したりして...。
神について語られるものはすべてそういうものだ、と言ってもいいでしょう。そこに如何に先入観、固定観念が支配しているかが知られるでしょう。
つまりは、"始めに観念ありき、思念ありき"ってことでしょう。こういう心的在り方であるうちは、思いを超えることは不可能なのです。
考えられた神、信じられる神...ニーチェは、"神は死んだi"と言ったが、最初から生きたものとは言えないものではないか?...生ける現存、神的なものは我々に臨みたまわないのだろうか?
生ける現存が臨む(現臨)ということは、この我々を取り巻く思念層が突破されることに他なりません。
これには思われた我々からは何一つ始まって来ないのです。
"始めにロゴスありき"...勿論、この聖書にあるような言葉などが媒介となって、その指し示す内実に触れるということはあるでしょう。それもこれも、このもの在っての話であり、無ければ思いの世界の堂々巡りになるばかり...
要するに、神、神的なものというものは、このようにそれ御自らが自己限定して、我々に臨んで来るもの以外には存在しない、と言っても過言ではないでしょう。関わる、触れるという術が無いのですから...
それはいくら考えても分からないものだけど、神的なものというのは、それに触れることで如何に有り難く、幸福になれるものかということは、それが感受されることで分かるのです。
もう、このこと自体がこちら側の何かに依るものでなく、神的なハタラキと言ってもいいのです。
仏教にあっては"始めにダンマありき"、その他"タオありき"...幾多もの教典に書かれた言葉は、この原初の事態がはしょられざるを得ず、いつの間にか、人間的な言葉に取って代わってしまったということでしょう。
コロナは終息に向かっているのかどうかは分かりませんが、人知というものの限界を知らされたところに、あるいは我々の思いを超えたものー生けるロゴスーが臨んで来るかもしれません。
昨日、"言葉はある内実を伝える単なる表徴にすぎない..."みたいなこと言って、何でそんな決めつけたようなことを言うのかi、...って別に定義などするつもりはありません。
これは、もうずっと言い続けていることで、極めて我々の実存に関わることなのです。
言うまでもなく、神は何であるかは分からないですよ。分からないものは想像することしか出来ません。先人が残した教えとか、教典に書かれた言葉とかに依拠したりして...。
神について語られるものはすべてそういうものだ、と言ってもいいでしょう。そこに如何に先入観、固定観念が支配しているかが知られるでしょう。
つまりは、"始めに観念ありき、思念ありき"ってことでしょう。こういう心的在り方であるうちは、思いを超えることは不可能なのです。
考えられた神、信じられる神...ニーチェは、"神は死んだi"と言ったが、最初から生きたものとは言えないものではないか?...生ける現存、神的なものは我々に臨みたまわないのだろうか?
生ける現存が臨む(現臨)ということは、この我々を取り巻く思念層が突破されることに他なりません。
これには思われた我々からは何一つ始まって来ないのです。
"始めにロゴスありき"...勿論、この聖書にあるような言葉などが媒介となって、その指し示す内実に触れるということはあるでしょう。それもこれも、このもの在っての話であり、無ければ思いの世界の堂々巡りになるばかり...
要するに、神、神的なものというものは、このようにそれ御自らが自己限定して、我々に臨んで来るもの以外には存在しない、と言っても過言ではないでしょう。関わる、触れるという術が無いのですから...
それはいくら考えても分からないものだけど、神的なものというのは、それに触れることで如何に有り難く、幸福になれるものかということは、それが感受されることで分かるのです。
もう、このこと自体がこちら側の何かに依るものでなく、神的なハタラキと言ってもいいのです。
仏教にあっては"始めにダンマありき"、その他"タオありき"...幾多もの教典に書かれた言葉は、この原初の事態がはしょられざるを得ず、いつの間にか、人間的な言葉に取って代わってしまったということでしょう。
コロナは終息に向かっているのかどうかは分かりませんが、人知というものの限界を知らされたところに、あるいは我々の思いを超えたものー生けるロゴスーが臨んで来るかもしれません。