人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

スピリチュアルとメシを喰う真実

2017-08-22 13:01:41 | スピリチュアル?
このところ、下火になった感もあるノンデュアリティ界隈ですが、その主たる批判のホコ先は、その言説がこの現実世界にはちっとも即応していない、というものだったのではないでしょうか?
"個人は居ない、全体しかない、起こることが起きるだけ..."とりつくシマも、ミもフタもないことを言う人の話を、ポカーンとした顔して聞いている人たちが居ることで、現実に何が起きているのか、知れようものです。
こういうことを伝え広め、懐を潤そうと目論む人が居て、それに何かを求め、あやかろうとする人が居ないと、絶対にそういうことは起きません。
需要と供給というか、二元的世界で、当たり前のように起きてることが起きているのです。
それに群がる人というのは、個が全体に飲まれるように、それに引き込まれ、自分の意志でないようなところから、懐から生活の糧が、どんどん出ていきます。(いやあ、実に巧妙に誘導するものです..)
昔ながらの宗教カルマというものを見せ付けられるようではありませんか? (救いなのは、それらの中には理屈っぽくて、批判的な精神も持っている人たちも見受けられるところでしょうか? それはある面で救われにくい事なんですが...)
で、教師たちは何を言っているのか、というと...何かを言ってみただけでしょう。
ちっとも現実に即してもおらず、"個我を無くせばいい、思考を手放せばいい、宇宙にゆだねたらいい..."などと、出来そうにないことばかりを...
そこで言葉を越えた愛、エネルギー、神的なもの、ハタラキといったものが伝わるのなら、別の話です。
そうさせる何かが伝わって初めて生きた、現実に即した言葉となるのです。
実感させられたものほど現実的なものはないから...
しかし、言葉を超えたものについては、あのように断定的に言い表すことなど出来ようはずなどありません。
どのように感じるか、観れるかは、全く自由なはずです。
そしてそれが伝わるということは、教える者も、教わる者も無く、両者にある回路が開かれることを意味しています。
そこに一元も二元もなく愛、現存を共有する場が形成されるのです。
悟り系の教師たちの中には、元々はこうした有り様を目指していた人も居たはずで、又現在そんな人も居ることでしょう。
ただ、こういう有り様は、純?共同的在り方というべきもので、ちっとも"儲かりませんi" 儲けようと目論んだ途端、別のものに、利益社会的なものに変質してしまいます。
儲けたいと目論むということは、悟ったようなことを言っている人も、我々下々の者たちと同じ"食わなきゃならない"という、当たり前すぎるような現実問題を背負っているということを意味しています。
私はけっして"スピで儲けてはならない"などとは思っていません。
ただ、とても訝しく感じていることは、それを展開するについて、その周辺に横たわる、純粋な有り様と相容れない事柄を曖昧なままにして、洗脳するように、もっともらしい"悟り言葉"で誤魔化すところなのです。
「悟りという言葉は、悟ってない人が言うことだ...」へえ...言ってみちゃうものだ...しかし、絶対に講演会、瞑想会の宣伝は怠らない...いやが上にも悟らないとならないような気がしてきた...
何で各地で講演会を開き、なんちゃら瞑想とかを普及しているのか? その事と日頃説いている非二元的教説とどう結び付くのか、結び付かないのか?  別に"結び付かんでもいいだろi" 切実な問題はみんな持ってるし、分かってることなんですから...覚者は常に整合性を持ってないといけないのか? ボロを出す前に"メシを喰う真実"を説いたらいいのでは?
もし、その教師に何か共感するものが感じたのなら事情は理解し、"お付き合い"するのもいいでしょう。相応の支出でも納得出来ようものです。
でも、このことをウヤムヤなものにし続ける事は、多くの魂を、自分の魂を裏切り続けることになるでしょう...。

コメント
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