人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神はどっちでもない

2017-08-08 13:07:45 | 
宗教、スピ界には、各種瞑想法などエクササイズ、メソッドというものがゴマンとあります。
それが健康法や体質改善などに結び付いたものでしたら、その"やり方"に則らなければならないのは言うまでもありません。
目指すものがハッキリしている人は、多少の努力を惜しまずそれに勤んでいくものでしょう。
しかし、それが覚醒や悟りを目指してのものだったら...その手引きなどを目にして、おいそれと"こうすれば悟れる"という文句を信じ込んでしまうものなのでしょうか?
私はほとんどそうしたものに引っ掛かった事がありません。
単純に惹かれるものがなかったのです。言い換えると何も促されるものが感じられなかった、ということです。
私がしばしば"導き"と言っているのは、具体的に言うとこういうことなのです。
そういうやり方をして、精神的な目覚めに預かるようにはどうしても感じられなかったのです。
これは求道心旺盛だった頃、五井先生や手島先生、小池先生、そして大調和世界観(段々誰も知らなくなる?)などに触れている事が大きいと思います。(巷ではヨガや密教などの瞑想が流行っていたし、知り合いもそれらに勤しんでいたにも拘らず...)
このチッポケな自分から"やり方"に従おうとする前に、神の導き、上よりの恩寵というものに惹き付けられたのです。
個人だけの力に依るものじゃない...ということは目覚め、宗教的回心というものも個人がどうなるこうなるということでない、ということもどこかで知らされていたようです。
もはや個人の問題でないということは、世界とか人類とか自分を越えたつながりの問題ということにもなってくるでしょうか?
こうした方面に関心を持つ多くの人は、個人的な悟りといった方に意識が向かわず、対外的に慈善活動とか社会運動、平和運動に関わっていくようです。
私はこういった方面にもほとんど心が向かうことはありませんでした。
内面的なものなどそっちのけで、各々の依拠するイデオロギーばかり喧しくたたかわせる平和論などとにかく嫌悪感しか感じることが出来ません。神というもののない平和というものは有り得ないということが示されるばかりです。
私がここで言っている個人を越えたつながりというものは、こういう客観的な世界のことでないのは言うまでもありません。
その出どころといってもいいのでしょうが...決まった表現が...ないi アホなi これなくして私は寸時も生きられないというのに...
先の"悟る個人"を想定して瞑想修行に勤しむ有り様というものは、大雑把に言って、個を実現していく道と言えるでしょう。
自分以外のつながりのことなど意識することなく、おのが道を極め続けることが出来ます。
一方、対社会的な活動には、自己の内面に向かうことがありません。
又、これと全く異なったもので、悟り系スピなどでは"個はない、幻想...全体だけがある"などと説かれています。
ここで"全体"と言われているものは、先の"つながり"のことを言い表しているとも思えますが、私は個"しか"ないとか、全体"しか"ないなどとは言うことが出来ません。
何と多くの人は事の一面しか言い表していない観方、言葉に引っ掛かっていることでしょうか...
別の例で、"人間は肉体ではない、霊的存在である"という言葉で意味しようとしているのは、肉体"のみ"ではないということではないでしょうか? 肉体のみではない、ということは霊"のみ"でもないはずなのです。
要するに私はこういう"どっちかしかない"ものに思いを偏らせるものには、導かれることがないのです。
それは惹かれることがなかった訳ですが、それは神的なものを感じなかったと言うことも出来るでしょう。
神的なものが伝わるところ、個のみでも、全体のみでもない、全包容的ともいうべき調和に誘われるのです。

個的なものがあり、全的なものがあり、その個と全を調和あらしむるものがある...それ自体が調和であるもの...
ここから離れたものは最善のものたり得ない...
個と全(世界人類)のことは、このもの自らの顕現にかかっている...マーラナサ、主よ来たりたまえ...

神的なものの示現のますますハッキリとしてきているのを覚えずにいられません。





コメント (2)
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