何度か触れているように私が"人生の裏側"とか"見えざる領域"とか言っているものは、短絡的に"霊界"といった世界のことを差しているのではありません。
私は霊能者でないので、そういう世界を見た事もなく、それが有るとも無いとも決めつけることは出来ないのです。
これは意識の変容に伴って、それまでの観方、感じ方が一変するようなことを言っているのです。
その一端について、"見ている景色は同じでも、根底的に何かが変わっている...変わったのは向こう側じゃない、こっちの土台なんだ..."という感覚で言い表すことも出来るでしょう。
根本的に物事が変わるということは、こういうことなのではないでしょうか?
私は実際にそういう経験がないのですが、例えば霊界の様相だとか、霊的存在というものが見えたとして、それをあたかも画面を見ているように対象的に見ているだけでしたら、"一風変わったものを見ている"というだけのことではありませんか?
もっともほんとにその霊(界)的なものと関わることは、それで済むはずのものじゃない、とは感じていますが...
何にしろ、巷では霊的なこと、スピリチュアルのものと言えば、見える物質とは別の、そのレベルを越えたものとして捉えられ勝ちなようです。
そして現在は、物資的レベルから霊的レベルに移行中であり、それは4次元、5次元への上昇で、やがて7次元の神の次元へと到達するのだとか...
いかにも見てきたような、誰しもが思い描く事が出来るような言い方ではありますが、霊能者はともかく、ただそうした言説を信じ込んでいる人というのは、正しく思い描いているだけなのです。
私は、宗教やスピ界隈に取り巻いているこうした風潮に接するにつけ、"これこそは物質的な観方の延長ではないか"との感がしてくるのです。
これを精神的物質主義という言い方もあるようですが...
そこでは、言葉で言い表し得ないある意味"不可視"であることが、いとも容易く図式的に表されてしまうのです。
"物質、肉体があって、霊的なもの、霊体がある"、"4とか5とか次元、レベルがあるのだ"と...
これは容易く分離されてしまうということであり、容易くその意味付けが固定化されるということでもありますが、それはとりもなおさず、その亊物がそうであるというよりも、精神が分離し、固定化している、ということではありませんか?
だからこそ、彼らは容易く他人の言葉に迎合してしまうのでしょう。
意識が変容し、"人生の裏側"が開示するということは、物質レベルを越えて霊的レベルに移行するということでは全くありません。(こうした指向の背景には"物質は悪しきもので、淘汰されなければならない"という思いが根強くあります)
そこでは、物質、肉体と精神との分離感が無くなるのです。のみならず自と他、主観と客観、時間、空間...あらゆる分離感が...
それまでバラバラに切り離されたもののように感じていた自己が、全的なものとして、全一なものと感じられてくるのです。
そこには相克対立が無いのです。
そしてこの物質的現実から遊離するのでなく、もっとリアルな現実を目の当たりにすることです。
リアルなものが臨んでくるので現臨と呼んでいるのです。
こういう実感をどう言い表わせばいいか...私はやはり...霊なるもの、スピリチュアルなものと言いたいです。
霊なるものとは、確かに人知、思いを越えているもの...それは我々を取り巻くあらゆる障壁も相克も越えて調和あらしむるものだから...
私は霊能者でないので、そういう世界を見た事もなく、それが有るとも無いとも決めつけることは出来ないのです。
これは意識の変容に伴って、それまでの観方、感じ方が一変するようなことを言っているのです。
その一端について、"見ている景色は同じでも、根底的に何かが変わっている...変わったのは向こう側じゃない、こっちの土台なんだ..."という感覚で言い表すことも出来るでしょう。
根本的に物事が変わるということは、こういうことなのではないでしょうか?
私は実際にそういう経験がないのですが、例えば霊界の様相だとか、霊的存在というものが見えたとして、それをあたかも画面を見ているように対象的に見ているだけでしたら、"一風変わったものを見ている"というだけのことではありませんか?
もっともほんとにその霊(界)的なものと関わることは、それで済むはずのものじゃない、とは感じていますが...
何にしろ、巷では霊的なこと、スピリチュアルのものと言えば、見える物質とは別の、そのレベルを越えたものとして捉えられ勝ちなようです。
そして現在は、物資的レベルから霊的レベルに移行中であり、それは4次元、5次元への上昇で、やがて7次元の神の次元へと到達するのだとか...
いかにも見てきたような、誰しもが思い描く事が出来るような言い方ではありますが、霊能者はともかく、ただそうした言説を信じ込んでいる人というのは、正しく思い描いているだけなのです。
私は、宗教やスピ界隈に取り巻いているこうした風潮に接するにつけ、"これこそは物質的な観方の延長ではないか"との感がしてくるのです。
これを精神的物質主義という言い方もあるようですが...
そこでは、言葉で言い表し得ないある意味"不可視"であることが、いとも容易く図式的に表されてしまうのです。
"物質、肉体があって、霊的なもの、霊体がある"、"4とか5とか次元、レベルがあるのだ"と...
これは容易く分離されてしまうということであり、容易くその意味付けが固定化されるということでもありますが、それはとりもなおさず、その亊物がそうであるというよりも、精神が分離し、固定化している、ということではありませんか?
だからこそ、彼らは容易く他人の言葉に迎合してしまうのでしょう。
意識が変容し、"人生の裏側"が開示するということは、物質レベルを越えて霊的レベルに移行するということでは全くありません。(こうした指向の背景には"物質は悪しきもので、淘汰されなければならない"という思いが根強くあります)
そこでは、物質、肉体と精神との分離感が無くなるのです。のみならず自と他、主観と客観、時間、空間...あらゆる分離感が...
それまでバラバラに切り離されたもののように感じていた自己が、全的なものとして、全一なものと感じられてくるのです。
そこには相克対立が無いのです。
そしてこの物質的現実から遊離するのでなく、もっとリアルな現実を目の当たりにすることです。
リアルなものが臨んでくるので現臨と呼んでいるのです。
こういう実感をどう言い表わせばいいか...私はやはり...霊なるもの、スピリチュアルなものと言いたいです。
霊なるものとは、確かに人知、思いを越えているもの...それは我々を取り巻くあらゆる障壁も相克も越えて調和あらしむるものだから...