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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

気付きと観照

2015-11-24 16:59:05 | 意識、照明
毎日毎日、欠かさず励む修行、一歩一歩より上の境地を目差して…
だが、ランチで大嫌いなマヨネーズが入ってたので大激怒!”オラ、店員! あれほど、抜いとけと言ったのにーッ!” (これにはあの”津田カン”もまっつ青だ…)
あ、しまった! 僕としたことが…僕は超人類を目指しているんだった、こんなことで感情的になってしまうなんて…ハイヤーセルフが泣いちゃうよ!
これで一からやり直し…ああ、神様…僕は何時になったらあなたと一つになれるのでしょうか?
と落ち込んでるうち、「あのねえ…君は全く時代遅れなんだよなア…みんな最初から悟っているんだから、修行なんてやる必要が無い…第一そんなことしてる個人もいないんだよ、これが究極の真理、探究の終わりなんだよ…」と最近”間教”にハマりだした木下一八三課長に”ハイ、論破!”され、ずっとマントラのように”私はいない、私はいない”と思おうとしているんだが、私自身とそう思おうとしている自分との二元性になかなか決着がつかないのであります…。
すると、何やら”炎と光”だとか”首なし人間”だとかのイメージ瞑想の修行みたいなのに凝り出した木下課長を見てるうち、僕は何が何だか分からなくなってしまいました…(終わりなき探究者の手記より)

スッキリしました?…モヤモヤ?…
こういうスピ系界隈にまつわる話というのは、まるで現代世界、人類の縮図のように感じます。
一生懸命何かを求め、何かになろうとし、気付こうとし、そして悟った、行き着いたつもりが…
自分から、自分というものを起点にして、求め、気付こうとして、堂々巡りの繰り返しになってしまうのですね。
普通に考えても自分を超えたものを求めようとしても、この限界ある自分がそうしようとするのは無理というものでしょう。
塀の中で外に居るつもりになってるようなものです。
気付きというものでも、私は当たり前のようにそう言ってしまいますが、自分から気付くことなんて出来るものなんでしょうか?
多くの場合、そのようになる契機が与えられるのではないでしょうか?
例えば先のクサイ例では、怒り心頭になってしまう事が起きます。
ここで、自分を超えようとして”こんなことじゃあダメなんだ”と強がり言ってたって気付けないのです!
”どんなにごリッパに振る舞おうとしても、自分はこういう人間なんだ…”と自分の限界を知らされること…それが気付きというものじゃないですか?
反省するのはいいけど、アレコレ至らない話を盛る必要もありません。元々どこにも至らないんですから…
そこがあなたが置かれている現実だという事です。
そして…まさにその瞬間に光が差し込むのに気付かれることでしょう。
限界を示されて初めて、それを超えたものに光が当たるのです。
一生懸命光そのものを思おうとしても、気付けるものではありません。
このような契機というのは至る所に見つかると思います。
例えば…自称覚者のあまりにも人間臭い振る舞いとか…笑えるう…
でも笑ってばかりではいられません。何でオカシイかと言ったら、自分自身にも有る部分を映し出してくれるからです。反面教師って言いますけど…
そして又、今日のような申し分のない秋の夕暮れ…紅葉に夕日が反射して、まるであの自己を超えたところから観照されている感じを想起させてくれます。
そうです!我々に気付きをもたらしてくれるものは、この”お照らし”に他ならないのです。
有難い気持ちがいつのまにか我々をそのように照らしてくれるのです…。

コメント
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