「幸福(エウダイモニアー)とは善きダイモーン、または善き指導理性のことである。」
マルクス・アウレリウス (自省録)
プラトンの「ソクラテスの弁明」を紐解いてみても古代ギリシア~ローマでは、神々と人間の仲立ちをしているダイモーンと呼ばれる霊的存在が信じられていたようです。
この世界での哲学者というのは、このダイモーンの語り部といった性格があったことも伺われます。
今日でいうチャネラーとも通じてきそうです。
ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、しばしばダイモーンを指導理性として語っています。
つまりダイモーンとは、守護霊、指導霊的な存在であったと同時に、人間を内的に秩序をもたらす理性的なものとも結びつけられていたのです。
これがヨーロッパ近代の合理主義に至ると、人間理性が自立して、人間を超えた霊的存在は迷信として封印されてしまいました。
また遡ってキリスト教世界では、この善き指導霊は、デーモンに転化され人間を誑かす悪魔的なものとみなされるようになりました。
それらが語られるのは異端の魔術の世界に追いやられました。
教会公認の神、教え以外の人間一人一人の内なるメッセージなどは全てデーモンの働き…
”神が直接私に語った”といった主張は、それがたとえキリストからのものだろうと悪霊からの誑かしという訳です。
今日では異端審問も魔女裁判も無くなりましたが、守護霊などダイモーン的な存在は未だはっきり認知されていないようです。
宗教の世界で物をいうのは、とにかく神を信じる事です。
至高の神、唯一絶対なる神を信じる…下々の民に直接語るようなハグレ神が一体何になるだろうか!と言わんばかりです。
かつてある人が言ってました。「守護霊とか人間に近いような霊ってのは、段階の低い霊でしょ…もっと宇宙の根源神と関わる必要があるでしょ…」と…
バッカじゃなかろーか! われわれと直接関わらない、結びつかないような至高なる、根源的な神が一体何になるだろうか!
もう、所謂信者というのは、一生絵に描いた宇宙神を信じ、仰ぎ続けるより他仕方が有りません。
神、ダイモーン、宇宙人? 何であってもいいですが、それらは抽象的にしか理解されなかったら、何時まで経っても絵空事に終わるだけです。
それらとの関わりというのは、具体的な実存的な事を通してしかなされ得ないのです。
ただ、そこで肝心な事はその関わり様です。”神を見た”とか”神の声を聞いた”としばしば語られるその内容が、もし本当に肉眼に見えるようにそれを拝し、聞こえるようにそれを聞いたとしたら…私の場合多分どっかオカシクなってしまうと思います。(もっとも元々そうなのですが)
私が何度か触れているこの直接的関わりというのは、自分と何かが二つになっているような二元的なものではありません。
この事に関して、古代ギリシアでダイモーンの神託が行われていた、デルフォイの神殿に刻まれていたという言葉「汝自らを知るべし」がとても示唆を与えてくれます。
内的な理性と結び付けられていたものも、私にはあの光に照らされるような、照明のようなものを想起させます。
私のこういうものが芽生えていた当時は、しばしば指導理性にも似た内なる催しを感じていたものでした。
今はヘンな知恵とか悪い遊びを覚えて堕落したのか、見えざるモラリスト?は後退してしまった感もあります。
(というより、30数年前の私はマジメ過ぎてたのかしら…)
その分、自己との一なるつながりが強くなってきた感がするのは時代相の変化でしょうか?
神と人間のつながりは神人ダイモーンの托身によって明らかになるでしょう。
マルクス・アウレリウス (自省録)
プラトンの「ソクラテスの弁明」を紐解いてみても古代ギリシア~ローマでは、神々と人間の仲立ちをしているダイモーンと呼ばれる霊的存在が信じられていたようです。
この世界での哲学者というのは、このダイモーンの語り部といった性格があったことも伺われます。
今日でいうチャネラーとも通じてきそうです。
ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、しばしばダイモーンを指導理性として語っています。
つまりダイモーンとは、守護霊、指導霊的な存在であったと同時に、人間を内的に秩序をもたらす理性的なものとも結びつけられていたのです。
これがヨーロッパ近代の合理主義に至ると、人間理性が自立して、人間を超えた霊的存在は迷信として封印されてしまいました。
また遡ってキリスト教世界では、この善き指導霊は、デーモンに転化され人間を誑かす悪魔的なものとみなされるようになりました。
それらが語られるのは異端の魔術の世界に追いやられました。
教会公認の神、教え以外の人間一人一人の内なるメッセージなどは全てデーモンの働き…
”神が直接私に語った”といった主張は、それがたとえキリストからのものだろうと悪霊からの誑かしという訳です。
今日では異端審問も魔女裁判も無くなりましたが、守護霊などダイモーン的な存在は未だはっきり認知されていないようです。
宗教の世界で物をいうのは、とにかく神を信じる事です。
至高の神、唯一絶対なる神を信じる…下々の民に直接語るようなハグレ神が一体何になるだろうか!と言わんばかりです。
かつてある人が言ってました。「守護霊とか人間に近いような霊ってのは、段階の低い霊でしょ…もっと宇宙の根源神と関わる必要があるでしょ…」と…
バッカじゃなかろーか! われわれと直接関わらない、結びつかないような至高なる、根源的な神が一体何になるだろうか!
もう、所謂信者というのは、一生絵に描いた宇宙神を信じ、仰ぎ続けるより他仕方が有りません。
神、ダイモーン、宇宙人? 何であってもいいですが、それらは抽象的にしか理解されなかったら、何時まで経っても絵空事に終わるだけです。
それらとの関わりというのは、具体的な実存的な事を通してしかなされ得ないのです。
ただ、そこで肝心な事はその関わり様です。”神を見た”とか”神の声を聞いた”としばしば語られるその内容が、もし本当に肉眼に見えるようにそれを拝し、聞こえるようにそれを聞いたとしたら…私の場合多分どっかオカシクなってしまうと思います。(もっとも元々そうなのですが)
私が何度か触れているこの直接的関わりというのは、自分と何かが二つになっているような二元的なものではありません。
この事に関して、古代ギリシアでダイモーンの神託が行われていた、デルフォイの神殿に刻まれていたという言葉「汝自らを知るべし」がとても示唆を与えてくれます。
内的な理性と結び付けられていたものも、私にはあの光に照らされるような、照明のようなものを想起させます。
私のこういうものが芽生えていた当時は、しばしば指導理性にも似た内なる催しを感じていたものでした。
今はヘンな知恵とか悪い遊びを覚えて堕落したのか、見えざるモラリスト?は後退してしまった感もあります。
(というより、30数年前の私はマジメ過ぎてたのかしら…)
その分、自己との一なるつながりが強くなってきた感がするのは時代相の変化でしょうか?
神と人間のつながりは神人ダイモーンの托身によって明らかになるでしょう。