人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私の歴史開かる

2015-04-17 19:12:34 | 映画・音楽など
皆さんは何歳ごろからの記憶が鮮明に蘇ってきますか?
私の場合、何と言っても昭和39年からです。東京オリンピックのあった年ですね。
それも今頃の季節からだったと思います。私が6,7歳のころです。
それ以前は何か混沌としていて、私における天地がまだ部判していない感じです。
私の歴史はこの年から始まったといってもいいでしょう。
とにかくその年、私の人生にエポックの数々が刻まれたのです。
生まれて初めてハマッた音楽、曲…これは間違いなく「ラ・ノビア」という曲です。
当時「ザ・ヒットパレード」というザ・ピーナッツや弘田三枝子ら(ナベプロ・オールスターズ)日本人歌手によって、洋楽トップテンヒットを歌うという趣向の番組でやっていた曲です。
この時の洋楽は日本でもビートルズ旋風の真っただ中で、”アゲハ―”という曲(抱きしめたい)、”ハーディナイ”という曲(ア・ハード・デイズ・ナイト)といったビートルズ・ナンバーがベストテンをにぎわしていた(もっともこの事を知ったのは大分後年になってからでしたが)のですが、この年の洋楽で特徴的だったのは、その中に常に何曲かカンツオーネ(イタリアの歌謡曲)が入っていたことです。
これはそのうちの一つで原曲は南米アルゼンチン産で、イタリアの歌手トニー・ダララが歌って大ヒット、日本ではペギー葉山さんがカバーヒットさせました。私はこの自分からエモーションをあまり表に出さず、徐々に高めて行くような曲が好きだったのです。
そしてこの頃、私は危うく死にかけた事が有ります。
小学校でクラスの悪ガキのいたずらで、高さ1m半くらいの台から頭からまっさかさまにコンクリートめがけて落とされてしまったのです。
今思い出してもゾッとしますが、頭がい骨折や首の骨が折れてもおかしくないのに、一日中偏頭痛がしたのと、頭のコブだけでよく済んだものだと思います。
これは私の人生で”見えざる守護”というものをもっとも強く感じさせる出来事でした。
その日は午後から母に映画を観に連れて行ってもらいました。「モスラ対ゴジラ」です。
ゴジラの雄たけびが映画館内に響きわたるたびに、頭がズキズキしたものです。
伊福部昭さんのサントラではこれが一番好きです。エモーションが徐々に高まってくるようで…
それにしても、ゴジラの放射能光線で羽を焼かれながら、卵(あんなニワトリの卵のような蛾の卵があってたまるか!と思いましたが)のもとに落ちて行くモスラの悲壮感漂う姿が忘れられません…。
しかし私が生まれて初めて、ハラハラドキドキ感動しながら観た映画はその年の夏テレビの深夜映画で観た「猿人ジョー・ヤング」でした。
これは怪獣映画クラシック「キングコング」路線の巨大類人猿ものですが、凶暴なコングから「コングの息子」を経て、小型化するにつれて段々人懐っこくなっていくというある種の進化が見て取れるようで面白いです。
(前二作は前の年に観ているのですが、いかんせん混沌としていて印象に残っていません。ストーリーなど頭に入ってませんし)
ずっと大人になってからビデオで観ましたが、最後の場面燃え盛る炎の中で孤児たちを救出した後、ドッとくずれおちるジョー…”アッ!死んじゃった!”と思いきやケロッと出てきた時の安堵感など、アリアリと記憶が蘇ってきたのには驚きました。
さして評判になりませんでしたが、私にとっては忘れがたい作品です。
その頃確かハイヤーで開通した翌日の東名高速を通って行った、羽田空港で観た夕日の怪しいまでの紫紅に染め上がった空の美しさ!その頃から私の
一日のバイオリズムが高まるのは黄昏時であると意識されるようになりました。
この年は国内でも東京オリンピック開催、新幹線ひかり、その東名高速開通など…重要な年でありましたが、私の人生でもここで書ききれない程レコードに喜怒哀楽がくっきり刻まれるようになったのです。
そのように鮮明に記憶が蘇ってくるのは、概ね楽しい気分で過ごしていたからなのでしょう。実際はそんなに手放しで喜んでいられるような家庭事情では無かったのですが…。その頃からはしゃぎ回るような直情性、エモーションは抑えられて、ジワーッと高まってくるような喜びに浸っていたようです。


ノスタルジーと哀愁とちょっぴりエモーショナルなアザーサイド名曲館…今日は人生最古版です。

oTony Dallara ”La Novia”
o伊福部昭 ”モスラ対ゴジラ”
コメント
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