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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

宿業と本願

2019-08-10 12:00:57 | 仏教関連
「本願は考えるものではない。本当の意味で本願こそ宿業です。...宿業をもって自己自身とする本願こそ本当の宿業といえる」(安田理深/信仰についての問と答.文明堂刊)

"本願"とか"帰命"など、浄土系仏教で伝えられている教えですが、私は元々あまりそちらには直接縁がなく、主として小池辰雄先生の"キリスト道"を通じて親しんでいたのです。
又、関わりのあった大調和協会の創始者松本命御様は真宗に縁があり、講話などでしばしばそうした題材を取り上げておられたし、古い会員さんもその縁の方が多かったのです。
こうしたところからか、私は自然にこの周辺に息づいている道念みたいなものが身についたようでもあり、もともとそういう宿業を背負っていたということなのでしょう。
だからこそ、そういう道に導かれたということなのでしょうから...宿業。
業といえば、大方はネガティブに受け取られ、それを嫌い、その絡みから離れようとしたりするものです。
今、災難、苦難に見舞われていたら、そのように赴くのは当然のことでしょう。
しかし、宿命という言葉からも伺えるように、自分のもって生まれた性格とか、"どうしてもそうしちゃう、そうなっちゃう"、日常の性行とかは、容易に変えられないものです。
求道的な人は、"そういうのは本来の自分じゃないのだから、否定し、消さなければ救いも悟りも得られず、真我に目覚めることは出来ない"、と思い、イロイロ試みようとするかもしれません。
私なども、自分のいつも思いがガンジガラメになる性質をどんなに呪ったことでしょうか...思うまい、離れよう、逃れようとするほど、余計その絡みに嵌まってしまうよう...
自分からそれを否定し、無くそうとする試みは、すべて業の前では撥ね付けられ、無駄なことのようにしか感じません。
これが宿業というものか...ニセモノか本当かは知らないが、そうなっている現実から、この自己は離れることは出来ないのです。
そこで例えば、"いいや、これは捨て去るべき偽我であり、私は本来神の子で、完全円満なのだ"、と懸命に思おうとするのは、文字通り思いの世界で描いているだけです。
これは、現実を否定し、受け入れようとしない、ということで、現実の自己を受け入れないということになります。
この宿業を否定したところに、この思われた自己に先立つ、神的なものの発現、真我の目覚めなどあり得るでしょうか? むしろますますそれらを覆い隠し、離れて行ってしまうことにならないでしょうか? そこには、本当に"まかせる"という契機は生まれません。
そうなっている現実、自己を受け入れたところに、そこから離れ、超えられる契機が開かれるのです。
これは思われた自己の沙汰じゃなく、こちらに先立ち、導こうとしている本願的なものに依るのでしょう。
私の場合、容易に思いに囚われる性質が、容易に思いを超えたものに捉えられる性質に化してしまったようなのです。これは全く裏返しみたいなものです。
こういう種は、忌まわしき宿業の中に包まれてあったのです。この宿業を生きていたからこそ、本願にまみえることが出来るのです。
良くも悪くも、縺れたような業的つながりにある人生、しかし、そこに神仏とのつながりが芽をだすこともある...
結局、ありのままの自己を信頼するということに尽きるでしょう。そこに自己を超えたもの、神仏への信頼も生まれ、"まかせる"という心持ちも生まれるのでしょう。










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念仏の普遍性

2019-08-09 11:59:57 | 仏教関連
鈴木大拙などの禅を中心とした宗教哲学に比べると、あまり馴染みが無いようですが、清沢満之に始まり、暁烏敏、金子大栄、曽我量深、安田理深らを輩出した、真宗大谷派の宗教哲学の学統は、我が国の精神史の中でも特筆すべきものがあったと思います。
宗祖親鸞の教えが、我々により実存的深みをもったものとして、理解されるように至ったのは、彼らの功績だったと言ってもいいでしょう。
その自由な思索、感性に基づく考究の在り方から、時に体制的な、護教精神に囚われた教団側から圧力を受けたりしましたが、その書き物を味わってみて、彼らは哲学する精神を有しているのであり、真宗という教相に囚われていない、ということは充分に伝わってきます。
しかし、清沢師はそれほど感じないにしても、彼らは一様に、"南無阿弥陀仏"の六字の名号に、信心の帰着を求める姿勢を崩そうとはしません。
「名号の外に救いは無いのです」(曽我師)という言葉もあるくらいで、こういった点が、偏狭という印象を与えてしまうのか、縦横無尽に自由に語る大拙師などと違って、イマイチこの学統が浄土系仏教を超えて、広く我が国の精神界に浸透しなかった要因にもなっているように感じます。
しかし、私は"南無阿弥陀仏の外に救いは無い"、いやその通りではないか...と、ヒシヒシと感じてきます。こちらに念仏を称える習慣など無くとも...
念仏に法縁を感じている人には勿論、そうでない人にも、宿縁は一人一人違っていても...この宿縁に出会わされる、ということから離れて救いは無いのではないでしょうか?
小池辰雄先生なら"南無キリスト"であり、玉城康四郎先生なら"南無ブッダ"であって当然構わないでしょう。
こういう極言ともとれる言葉の奥では、ごく私的なことが、普遍性と切り離されていない、ということを表明されているのでしょう。
それは"念仏を称えなければならない"ということではない...こちら側の何かによって救われるのではない、そうでなければ"弥陀の本願"というものは空言にすぎなくなるでしょう。
これは信仰であって、信仰でない...そういうものをいくら観念的に信じたって、命になりません。信じたり、行じたりする以前に、又それらを超えて、命として感じられるものが本願的なものでしょう。
この宿業と本願の消息を究明したところに上記の諸先生たちの真骨頂があると思います。
そして、南無阿弥陀仏というものの内実にあるのは、永遠の命、文字通り普遍に通る光に帰命するということで、浄土系とか仏教という範疇を越えているものなのです。
彼らの表向きの念仏を勧め、深めて行く言葉に隠された真意は、念仏に宿縁を持つ者と同じように、諸人は、各々の宿縁により、各々の最愛のもの、神的なものとつながることだった、と言ったら言い過ぎになるでしょうか?
そこに言葉に表せない教相を超えたものを感じさせつつも、このような普遍性へと開かれた場へと展開しなかったのは、実に惜しい気がします。
これは彼らが学派のうちにとどまり続けた在り方の限界だったのかもしれません。
それにしても、お盆の季節と相俟ってか、その帰命という味わいは、実に我々日本人ならではのものという感じがします。
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...の如きもの

2018-09-16 11:17:40 | 仏教関連
宗教やスピの周囲には、ありとあらゆるトラワレで溢れかえっています。
トラワレから解放したいがために、それらを求めたはずではなかったのではありませんか?
正しい生き方、神サマ、教え、修行法...前世や死後の世界や超能力...
"有るのか、無いのか分からないものにトラワレるのは迷いだ...どこにも常なるものは無い...定まったものなど無い..."と説いたとされるのがゴータマ.ブッダでした。
しかし、仏説として当たり前のように信じられているものに、"執着を捨て、煩悩を断てば涅槃の境地に至れる"というものがあります。
世の中の通念としてでなく、これを自分の問題として思い浮かべてみて下さい。
(ブッダが何を言ったとか、聖典に何が書かれているか、ということで無しに、自分自身のことからでなければ何も始まりません)
このこと自体が大いなるトラワレだとは感じてきませんか?
人間離れした強靭な意志の持ち主でなければ、そういう境地に達することが出来そうにありません。
こうした通念が広まったのは、部派仏教が成立した以降とも言われていますが、おそらくたゆまぬ修行と結び付いたものなのでしょう。
一体、涅槃とは何だろうか? そんなに特殊な境地なんでしょうか?
そこには私というものが無く、全体しか無いのでしょうか? ブッダは何も明言などしてません。
ブッダが言う"無我"というものは、有るとか無いとか決まった我など無い、といったものではないでしょうか?
所謂ブッダの教説というのは、このように定見、定説に行き着かないようなものばかりです。
だから..."これがブッダの真説だ"というものは、ことごとくが"仏説にあらず"ということになりそうです。
世の中に"これが真理"というものなど何も無いi "真の如きもの"があるばかりということではないでしょうか? "真如"。
涅槃には安らぎがあるのだと言う...ああでもない、こーでもない、という諸々の思いから解放されたなら、正しくそれに与れる...かもしれない...
少なくともそれはあなた自身がそう感じ、確かめなければならないことでしょうが...
トラワレからの解放って...どういうこと? どうやって? とこれ又、自分の思いだけで決着をつけようとすると、迷いの堂々巡りを繰り返すばかりですよね。
トラワレは迷い、苦しみを生み出すもの...この自覚あるところ、"来るべきようなもの"の予感があるのです。
"迷い、苦しみの牢獄にある、この私にその自覚がもたらされたi それはガンジガラメにトラワレたこの思いから来るのであろうか?
そうではあるまいi 解放をもたらすものは、来るべきようなものなのだi" "如来"。
如来という呼び習わしは、おそらく大乗仏教の成立以降のことでしょうが、実にその名状し難い、形なき命が我に顕わになることと、トラワレの解放とは一つのことという示唆があるのです。
"涅槃に導くものもこのもの...なのかもしれない? 何も無いのが安らぎなのか、このものと共にあるのが安らぎなのか?
それはこの上無いものなのだろうか? いや、それは世の人が"これこそは無上の真理"と言って、迷い続けているものの外にあるのではないか?"

世の中には真の如きもの、悟りや救いの如きものしかないのです。究極の真理はあなた自身にしか開けないでしょう。







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業と縁

2018-03-18 12:31:13 | 仏教関連
悟り、解脱...
しばしば、業生を超えることとして語られますが、そういうことは一個人でどうなるという問題ではないことは、いつも書いているようにその感がいよいよ強くなってきています。
玉城康四郎先生は、禅定に入られ、形なき命、ダンマが心身を貫き、浸透しつつも、何度も業の我塊にぶち当たり、元の木阿弥になる、ということを繰り返していた、ことを何度も述べております。
ダンマは業熟体ー限りない過去からの生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの連なりーに顕わになる...もう、このこと自体が一個人でどうなる問題でないことを明らかにしているのです。
"一コの人間が居る訳ではない、それはつながりにおいてある"、ということは精神のあらゆる道で言われていることです。
しかし、玉城先生の理解では、それは業というものと結びつけられていたのです。
叶うことは出来ませんでしたが、先生に是非接見して、お聞きしたかったことは、"この内なる根源的共同態というものは、業的な側面しか無いのですか?" ということでした。
私は、この内なるつながりー普遍調和世界ーを垣間見ることに預かったことがありましたが、その時実感されたことは、その業的なものを想起される、諸々の絡まり、纏わりから解放された、そこに壁となって障るもの、滞るものが何も無い、というものでした。(それが、元の木阿弥になるのは、全く宿業みたいです)
何がそう感じさせているのか、言葉の限界を恐れずに言えば、その普遍的つながりに連なっていることが自覚されたからです。
つながりというと、そういう網の目みたいなものをイメージしますが、それはどこまでも無限に拡がっている...故に普ねく、隔てが無いのです。
つまり、私はこのつながりと切り離されていないからこそ自由であったのですi
逆に言えば、このつながり無くして自由というものは無い、分からないのです。
ここで見えてくることは、このつながりというものは、先の業熟体というものの裏返しだということです。
人が中々覚醒に預かることが出来ないのは、業というものを背負わされているからでしょう。
それから自由になろう、業生から抜け出そうと日夜もがいているのが、衆生のすがたのようです。
否応なしに我々に、くんずほぐれずのし掛かる、この忌まわしき絡まり...どこまでも影のようにまとわりつくこの"つながり"...
しかし...我々は"つながり"無しには、そもそも目覚めることは不可能であり、自由に預かることも出来ないのですi
この辺りのことをブッダは、"縁起"というもので説かれたのではないでしょうか?
生きとし生けるもの、ありとあらゆるものは縁によってなり、そこから離れることは出来ない...
業というものは自体、超えようとしたり、無くそうとしても元々、その目論みそのものが自己のよるべを失い、自壊へとつながってしまう結果となってしまうものなのではありませんか?
業生というものは、それ自体は超えることも、無くすことも出来ない...超えたり、消滅したりするものがあるとすれば、"業想念"というものでしょう。
業想念の最たるものとは、自分の思いで業生を超えようとしたり、無くしたり、その超えた境地に到達しようとするような想いではないでしょうか?
"自我、業というものは自分でどうこうすることが出来る"...この迷いから"それは、出来ないものだった..."と気付くことが、業想念から離れることにつながるのではないでしょうか?
そこから離れた時、忌まわしきものと思われた業が、祝福された縁へと化して行く...かもしれません。
エラそうなこと言っていて、業生の身の私にはよく分かりません。
人生には、否応なしに重ーくのし掛かってくるものがある...しかし、春ともなれば又、否応なしに身も心もその訪れに、歓喜を覚えずにおれない...。


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ゴータマ、ブッダとなる

2017-09-03 10:23:15 | 仏教関連
ゴータマ.ブッダは、悟りを求めて王子という境遇を捨てて、修業の旅に出るのですが、その途上アーラーラ.カーラーマという仙人にめぐりあい、弟子入りします。
ゴータマはカーラーマに「あなたはどういう程度の境地にあるのですか?」と、問いかけると、カーラーマは「無所有処(むしょうしょ)ー何物もなく、何物にもとらわれない境地ー」と、答えたそうです。
ところが、ゴータマは「その境地にあっても、涅槃に至ることはないだろう」と言って、そのもとを去って行きました。
次いで彼は、ウッダカ.ラーマプッタというこれ又仙人に入門します。
ラーマプッタが体得していた境地とは、「非想非非想処(ひそうひひそうしょ)ー何も思うのでもなく、思わないでもない境地」だそうですが、ゴータマは又しても"それは自分が目指している涅槃の道ではない"と、師と訣別するのでした。
ここで、まだ悟達に至っていないはずのゴータマに、何故こうした悟ったようなことが分かるのだろうか? という疑問が生じてきます。
まず、このエピソードを伝える中部経典には、ことさらゴータマには元々覚者たる風格を備えた、悟るべくしてそうなったという、特別な存在として描こうとしている傾向が垣間見れることを挙げなければならないでしょう。ブッダが体得した涅槃の境地とは、もっと究極のものだったということを言いたげに...本当にそうだったのかもしれませんが ...
何にせよ、分かる人には分かるということもあるでしょう。
体験とか瞑想の境地などに捕らわれていたら分からないでしょう。
これまで如何に多くの人がそれらに纏わるきらびやかな言葉に眩惑されてきたことでしょう。
そういうものとは、関係なく普段意識の奥にあって気がつかなずとも、ずっと息づいているものが誰にでもあります。
人生の諸々の苦難を通して発現してくる根源的仏性的なもの...あるいはブッダをして、その二人の仙人の示す悟境に身心を頷かせなかったものは、こうしたものだったのかも分かりません。
それは内なる声、導きともなるもの...このものに会わせられる、合わせていくことが悟りの体験、境地のみに囚われて追いかけることよりもなんと大切なことであることでしょう。
そもそも、このもの無くしてその内実も無いのです。
そして、このことはその後のゴータマの菩提樹の元における「実にダンマ(法)が、熱心に瞑想している修行者に顕わになるとき、彼の一切の疑惑は消失する。というのは彼は縁起の法を知っているから」(ウダーナ)という、ダンマの顕現の表明につながってくるのです。
そこでは、精神的目覚めの主体は、修行者個人から形なき命に転換されています。
これをゴータマを通してのブッダ(内なる仏性)の誕生と見ることも出来るでしょう。
個人の力ではどうしようもない、それは究極も何もなく、ただ自己を超えたつながり ハタラキに打ち任せることがあるばかり...縁起の法。
ここから、ゴータマ.ブッダは、苦悩、トラワレからの解放に預かったのです。
先の仙人たちの生き方に頷くことがなかった別の理由は、その示す道が現実の苦難の解決にはつながらなかったからでしょう。
涅槃、解脱の道とは、この生の現実から離れることではなく、どこまでも身はここに在りながら、それに囚われずに、安らいでいくダンマに裏打ちされた生き方だったのでしょう...。





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