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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実存的未来予言

2022-05-21 10:40:02 | スピリチュアル?
”人は、知っても何にもならない知識ばかり追い求める...それは断片ばかりで、解体された生命体のように生きたものではない!...
真の知識は、智恵、叡智...生命に根ざしたものであり、小智のとらわれから解放された時、おのずから与えられ、開かれるものなのであった!...”

私がこのような契機にあってから、どうしてもぬぐい去れなく感じていることがあります。
それは、世界的、人類的規模で我々の精神、意識構造が変容してしまうエポックが到来するであろう、ということです。
いつも、来るか来ないか分からない、確証の無い未来予言のような言説に対し、批判的なことを書いているのですが、私はその実...突拍子の無いことを言う人間で知られていたりして?...
そりゃあ、来ない先のことは分からないですよ!、だけど…私は現実に、現在においてそう感じたのです。
何がリアルなもので、何がそうでないかが示されたのです。未来のことよりこっちに力点がかかっているのです。
言い換えると、それは私の現実の問題、実存的問題と切り離されていないのです。
断片的な、死んだ知識は、五井先生流に言えば”消えてゆく姿”でしょう。
命に根ざしていないものを指向する、思考は淘汰されてゆくのではないか?
そして、生きた思考が、超越的な思考、あるいは原初的思考が降下され、あるいは呼び覚まされる...
つまりは、私自身の実存的なリアルな気付きは、普遍世界と結び付いたものとして感じられた、ということに他ならないのです。
このようなことは、しばしばスピ界隈では、アセンション~次元上昇と関連して語られるものですが、私にはこうした言説は、実存的問題と切り離されたならば、ただのゴタクにしか感じられません。
私は一時(そう、21世紀に入る直前頃)、“地球がフォトン.ベルトに突入する“、とかいった説に傾いたこともありましたが、何かを裏付ける科学的根拠のことなどは、ホントは実存的問題に照らせばどうでもいいことなのです。
聖書の終末予言も、種々の真しやかなご託宣を交えて語られるものですね。
人類未来のことは、今自分がリアルに何を感じているか、ということでおのずから示されるのではありませんか?
小池先生はよく“終末的現実”、ということを述べられていましたが、おそらくこの消息を言い表していたのでしょう。
それはすでに始まっているのではないか?...審判はすでに降されている!
全く中身の無い、薄っぺらな言葉の氾濫...全く命に根ざさない言葉、思考の末路を目の当たりにしている如くではないか!
このことが同時に、それを超えた、遠い昔、我々が失ってしまった意識の有り様を想起させるのではないか?
思考が生きたものに生まれ変わる!...それは頭だけでない、存在すべての生まれ変わりと言っても過言ではないでしょう。
それは何よりも、思いを超えた現臨にある時、いつも感じさせられていることです。
それは、来るべき霊なる新時代の予感を呼び覚まさずにおれません!...

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目を覚ませi、反省しろi

2022-02-19 10:08:47 | スピリチュアル?
私はこれまで、ここでスピリチュアルなことについての決めつけた表現、例えば、死後の世界、前世とか生まれ変わりというものは有るとか無いとか、何年後かに何が起こるとか、ということはほとんどしてきませんでした。
それは分からないから...分かりきったことですi これは、"そんなもん無い!"、と否定も出来ないということですが、決めつけた言い方には否定的なのです。
実際にその有る無しを確かめたことの無い大多数の人間は、確かめようの無い、他人の言説を鵜呑みにして、又よせばいいのに、右から左へ、その不確かな話を流したりしてるのです。
宗教、スピ界隈にはかくも思考が停止した事態、それにとどまらない倒錯した信仰が後を絶ちません。
そこには内省というものがみられず、それがリアルな神的なもの、霊なるものを"見えなくさせてしまっている"のです。
彼らは神や霊的な存在、そうした世界について語ります。しかし、その実はそうしたもののことなど、これっぽちも求めていないのではなかろうか?
そして、"完全覚醒するのだ"、とか夢みたいなことを語ります。それも、自分が信じ込んでいる誰かさんの教えの受け売りからでしょう。
要するに人の言葉を信じているだけなのです。ということは、どこまでも自分の思いがその対象に向けて馳せてゆき、どんどん強化されてゆくばかりなのです。
もし、真実にそれが神的な、霊なるものに意識が向けられるならば、そうした思念から離れ、超えられてゆくのが普通でしょう。
そして、本当にそうしたものと直接関わるならば、考えても分からないものが有るか無いか、ということなどどうでもよくなるでしょう。
分かりきったことですi...考え、想像しているだけでは絶対に分からない、愛、平安、リアリティに与るからです。
"完全覚醒"する(誰が?)というもの自体、想像して言っているのが伝わるものですが、頭の中が空想で一杯のままで、どうして神、霊なるものの現存を受け入れることなど出来ようかi?
覚醒というのなら、いい加減に目を覚ませi、反省しろi
彼らは反省することが出来ない...だから立ち止まることが出来ない...無反省な事態はおそらく、それが自壊するまでやまないでしょう...。
いや、反省だけならサルでも出来る(古いi)...反省というより内省が出来ないのです。だから言葉のオウム返しを繰り返すだけなのです。
反省とか内省というものの内実は、これまでほとんど語られることはなかったようです。
それは、他人の受け売りでなく、自分の頭で考える、ということではあるのですが、そこには自分の思いを超えた、より深いところから来る叡知に与る、という意味合いも含まれているはずなのです。
まあ、自分の頭で考えすぎると、又別の問題も起こったりするのですが、彼らの哲学的欲求に駆り立てるものは、それに与ることにあるのでしょう。
理由は、そこに愛、平安...(この場合は特に)リアリティがあるから...分かりきったことですi
反省しろi、ったって、それが悪いと決めつけてる訳じゃないですよi
だけど、人の本来的幸福を覆い隠すことなど、誰にも許されることじゃありませんよi
...って、私の見えない相棒も言っています...。
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私は神...ではないi

2022-02-06 10:07:05 | スピリチュアル?
スピ界隈には、人間は本来神と一つのものであるとか、神は内にお在す、というような教えが広く浸透しています。
私はそのことを否定するものではありませんが、そこから短絡的に"私は神であるi"、と言い放つことには、どうして向かわないものを感じてなりません。
何度か触れているようにこういうことは、ただそう言い伝えられていることを観念的に信じ込むことだけで、済ます訳には行かないものでしょう。
神がどういうものかは分からないし、本当に私と一つのものか、この内に神が居るのかは分かりませんが、少なくとも神的なものが私に密なものになることにより、そのような実感がもたらされたりするのです。
これは現実に神的な現臨を感じ、意識が向いてしまうことから示されることなのですが、だからといって、私が神になったりはしませんi
そうなったら、多分人間であることは終わってしまって、こうして好きなこと書いてたりしてないでしょう。
この言い回しの違いは、微妙なものではあっても、結構大きいものがあります。天と地ほどの違いと言ってもいいでしょう。
私は...私が...、という線には、思われたままの私、思いが越えられていない私が"そうなりたいi"、という欲求からそう主張したい、という思惑が感じられます。
こういう人間は、本当には神に思いが向けられてはいないのでしょう。神に思いが向けられれば、思いを超えた意識の次元が開かれるはずだから...神に思い、意識が向けられない、とは言い換えれば、神に自己を明け渡す気が無いということでしょう。
神の前にあっては、かくなろうとする自分は無化されてしまう...私は何ものでもない...
この思い方の違いについては、例えばある建物があったとして、本来地続きで大地とつながり、一つのものであっても、その建物自体は大地ではない、ということを考えれば理解出来るでしょう。
大地あっての建物...建物自体に囚われ、大地から切り離されるや、それは崩れ去ってしまう他ありません。
現実に私が...、という私が大地なる神につながることは、そう為さしめるもの無しには不可能であり、そうしたハタラキ共々が神的なものなのです。
現実に神と一つになる方に、意識が向けられることはあっても、"私は神である"、という方には行かないのです。そういう神的な促しは感じられません。
そういう思いに支配されるや、おそらくそのハタラキはとまるか、別のものに取って代わるでしょう(これは神なき人類の歴史の縮図を見るようでもあります)。
そう為さしめるものあっての私...そのものが現前すれば意識が向かわずにおれなくなる...そこには、神になろうと目論む私が与ることの決して出来ない、愛、平安があるから...。
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"私はいない"と考える私

2021-11-07 09:31:19 | スピリチュアル?
スピ界隈に忘れた頃に聞かれる言葉..."私はいないi"
このノンデュアリティの根本的教えってまだ大上段から語られていたんですね。
今じゃその方面の教師ってイメージが薄れた、某大御所ブロガーの記事にあったんですけど...
"あなたは個人として存在しているのでなく、全体の表現として存在しているのです...こういう真理は、まだ知識レベルでしか関心が持たれてないようです..."って、またぞろって感じですが、当たり前でしょi、そういう言葉を突きつけられたら頭で分かろうとするっきゃないでしょ?
大体、何で、"私があったら"いけないんでしょうか?...そうは言ってないみたいですけど、"私という個人がある感はそうそう落ちてくれない"、とヘンな風に誘導してますよ。
要するに、こういう教えというのは、個我(というものがあるとして)に囚われることで、生きづらくなっている、と感じてる人に向けられているのでしょう?
そう感じてない人には、"真理はこれっきゃないi"、みたいに決めつけられたら反感を買うのも当たり前の話でしょ?
そして、"私はいない"ということの真理性というものは、現実にそう感じられてこそ、頭だけでなしに頷けることなのでしょう。
それは、考えている私からはどうしても無理ですi...そう感じさせる、そう在らしめるものなしでは...
と、いうようなことを改めて書いているんですけど...
こういう言説に接していつも思い出されるのです。ちょうどタイミングが重なりまして...
"人間は個として存在しているのではないi"...こういう教えは、もう40年以上も前、知られざる秘教団体、大調和協会で初めて知らされたのです。
その言い回しは、原理主義的なノンデュアリティと異なって、そこには個として"のみ"あるのではない、という含みがあったのですが、私は長いこと、そのことを理解しようと、苦闘するように考え続けていたことがあったのです。
バカみたいなことだったんですけど...若かったなあ...なーんてi
だけど、そういう無駄とも思える観念の堂々巡りも、命位様との交流で一辺で覚めさせられたことは何度もありました。(何度も、ということはそういう状態が定着したことは無かった、ということなんですけど...)
それは、上記、"感じさせるものに出会った"、ということを裏付けるものではあったのですが、協会と私の関係は、命位様との関係なしには絶対に開かれなかった、と改めて思わされるのです。

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スピリチュアル.ボディ

2021-10-28 10:08:30 | スピリチュアル?
今日はですね、"霊体"について書いてみようと思うのです。
エーテル体とかアストラル体とか言って、何がどう違うのかテンデに分かりませんが、総じて霊なるボディについてです...
って、前回も書いたようにアタシャ、そんなもん実感、体感したことなど無いのに、書けるかってんですi
霊界に移行したことも無いのに...私の目はまだ黒いi...有るのか無いのか分からんものを空想してるより、この肉体のこと考えてたらいいのi
しかし...この肉体というもの、本当にその物理的肉体のみによって捉えられるものなのでしょうか?
そう思われているだけなんじゃないでしょうか?...少なくとも私はそう思えないことをいつも実感、体感させられているのです。
例えば、"じんじんして来た、感じて来た"、というのが正にそうなのです。もっと一般的?なものでは、それとセットになっているような"耳鳴り"というのもそう...あれは耳から聞こえて来ないのが不思議なのです。(聞こえて来るのもあるけど、そっちは耳鼻科に行かなきゃヤバイやつかも?)
こういうものは、物理的肉体というものに限定されたところからは来ないように感じざるを得ません。
さりとて、そこから離れたもののようでもない...離れたら遊離する、現実遊離と言ってもいいような感じになります。
現実感覚と私はよく言ってますが、それはただの観念的な事態というものと区別するために言っているのです。
ではその現実感とは、肉体から来るのでしょうか?...いいや、そんなこと無いでしょう。
その他、私は単なる頭の記憶と区別するために"身に覚える"、というようなことを言ったりします。
身体と結びつけたような表現ですが、正確なものではなく、やはり思いの世界との違いを示しているのです。
こういう風な言わく言い難い感覚を、私はさらっと内的感覚とか言ったりするのですが...
こういう感覚というのは、肉体で無ければ一体どっから来るのでしょう?...霊体?
だから、アタシャそういう目に見えんものが、それ自体独立して存在するような体的なものは知らんのやってi(何故か大阪弁)
この話を分からなくさせているものは、肉体があって霊体(とされるもの)があるという、二元的な観方にあるのではないでしょうか?
私に現実感、私自身について言えば実存感をもたらしているものは、見えるものと見えないものが不可離の、霊肉一致体?(見えないものに体という言い方は適切なのだろうか?)のようなものではないでしょうか?
言い換えると、我々が肉体と思っているものは、思ったよりも霊妙なものだということでしょう。
肉体は霊なるハタラキの媒体と観ることも出来るでしょう。依代という。
そしてそのものが抜けると、物質的な土くれになってしまうようにも見えます。
でもそれ以上に例えば人間の表情などには、見えない霊なるものとのつながりを感じずにおれません。
肉体は思った以上にスピリチュアルなものなのですi(というようなのが今日のテーマなのでした)


コメント (4)
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