”人は、知っても何にもならない知識ばかり追い求める...それは断片ばかりで、解体された生命体のように生きたものではない!...
真の知識は、智恵、叡智...生命に根ざしたものであり、小智のとらわれから解放された時、おのずから与えられ、開かれるものなのであった!...”
私がこのような契機にあってから、どうしてもぬぐい去れなく感じていることがあります。
それは、世界的、人類的規模で我々の精神、意識構造が変容してしまうエポックが到来するであろう、ということです。
いつも、来るか来ないか分からない、確証の無い未来予言のような言説に対し、批判的なことを書いているのですが、私はその実...突拍子の無いことを言う人間で知られていたりして?...
そりゃあ、来ない先のことは分からないですよ!、だけど…私は現実に、現在においてそう感じたのです。
何がリアルなもので、何がそうでないかが示されたのです。未来のことよりこっちに力点がかかっているのです。
言い換えると、それは私の現実の問題、実存的問題と切り離されていないのです。
断片的な、死んだ知識は、五井先生流に言えば”消えてゆく姿”でしょう。
命に根ざしていないものを指向する、思考は淘汰されてゆくのではないか?
そして、生きた思考が、超越的な思考、あるいは原初的思考が降下され、あるいは呼び覚まされる...
つまりは、私自身の実存的なリアルな気付きは、普遍世界と結び付いたものとして感じられた、ということに他ならないのです。
このようなことは、しばしばスピ界隈では、アセンション~次元上昇と関連して語られるものですが、私にはこうした言説は、実存的問題と切り離されたならば、ただのゴタクにしか感じられません。
私は一時(そう、21世紀に入る直前頃)、“地球がフォトン.ベルトに突入する“、とかいった説に傾いたこともありましたが、何かを裏付ける科学的根拠のことなどは、ホントは実存的問題に照らせばどうでもいいことなのです。
聖書の終末予言も、種々の真しやかなご託宣を交えて語られるものですね。
人類未来のことは、今自分がリアルに何を感じているか、ということでおのずから示されるのではありませんか?
小池先生はよく“終末的現実”、ということを述べられていましたが、おそらくこの消息を言い表していたのでしょう。
それはすでに始まっているのではないか?...審判はすでに降されている!
全く中身の無い、薄っぺらな言葉の氾濫...全く命に根ざさない言葉、思考の末路を目の当たりにしている如くではないか!
このことが同時に、それを超えた、遠い昔、我々が失ってしまった意識の有り様を想起させるのではないか?
思考が生きたものに生まれ変わる!...それは頭だけでない、存在すべての生まれ変わりと言っても過言ではないでしょう。
それは何よりも、思いを超えた現臨にある時、いつも感じさせられていることです。
それは、来るべき霊なる新時代の予感を呼び覚まさずにおれません!...
真の知識は、智恵、叡智...生命に根ざしたものであり、小智のとらわれから解放された時、おのずから与えられ、開かれるものなのであった!...”
私がこのような契機にあってから、どうしてもぬぐい去れなく感じていることがあります。
それは、世界的、人類的規模で我々の精神、意識構造が変容してしまうエポックが到来するであろう、ということです。
いつも、来るか来ないか分からない、確証の無い未来予言のような言説に対し、批判的なことを書いているのですが、私はその実...突拍子の無いことを言う人間で知られていたりして?...
そりゃあ、来ない先のことは分からないですよ!、だけど…私は現実に、現在においてそう感じたのです。
何がリアルなもので、何がそうでないかが示されたのです。未来のことよりこっちに力点がかかっているのです。
言い換えると、それは私の現実の問題、実存的問題と切り離されていないのです。
断片的な、死んだ知識は、五井先生流に言えば”消えてゆく姿”でしょう。
命に根ざしていないものを指向する、思考は淘汰されてゆくのではないか?
そして、生きた思考が、超越的な思考、あるいは原初的思考が降下され、あるいは呼び覚まされる...
つまりは、私自身の実存的なリアルな気付きは、普遍世界と結び付いたものとして感じられた、ということに他ならないのです。
このようなことは、しばしばスピ界隈では、アセンション~次元上昇と関連して語られるものですが、私にはこうした言説は、実存的問題と切り離されたならば、ただのゴタクにしか感じられません。
私は一時(そう、21世紀に入る直前頃)、“地球がフォトン.ベルトに突入する“、とかいった説に傾いたこともありましたが、何かを裏付ける科学的根拠のことなどは、ホントは実存的問題に照らせばどうでもいいことなのです。
聖書の終末予言も、種々の真しやかなご託宣を交えて語られるものですね。
人類未来のことは、今自分がリアルに何を感じているか、ということでおのずから示されるのではありませんか?
小池先生はよく“終末的現実”、ということを述べられていましたが、おそらくこの消息を言い表していたのでしょう。
それはすでに始まっているのではないか?...審判はすでに降されている!
全く中身の無い、薄っぺらな言葉の氾濫...全く命に根ざさない言葉、思考の末路を目の当たりにしている如くではないか!
このことが同時に、それを超えた、遠い昔、我々が失ってしまった意識の有り様を想起させるのではないか?
思考が生きたものに生まれ変わる!...それは頭だけでない、存在すべての生まれ変わりと言っても過言ではないでしょう。
それは何よりも、思いを超えた現臨にある時、いつも感じさせられていることです。
それは、来るべき霊なる新時代の予感を呼び覚まさずにおれません!...