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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己を超えるということ

2018-09-20 12:38:29 | 覚醒
Sさんという、東西の宗教、神秘思想などに通じていて、自身の精神的目覚めの体験についても、その著書などで書き表している人がおります。
私は共感出来るところも多く、その言葉を超えた体験の模様というものはハッキリと伝わるものがあります。
この方が現在ではかなり回復されているようですが、少し前自身がうつ病であることをそのブログで公表されていました。
この方は教師的なこともされているので、こういうことを隠さずに言えるということは本当に勇気の要ることであり、実に敬服に値すると思います。
夜眠れない、薬に頼りきりの毎日、ネガティブに感じる言葉を沢山もって、ありのままに述べられておりました。
悟りとか覚醒に与ることはあっても、苦難はその事とは別に起こる時には起こるのです。
そんなこと、何ら特別でない、フツーの人間のことなんだから、当たり前のことでしょi
目覚めると、煩悩から、苦難から離れることが出来るというのは、世の人が勝手に抱いているイメージに過ぎないのです。
これがよく内容が見極められていないまま、イメージばかり一人歩きしている所謂"悟り"のイメージと結びつくのでしょう。
むしろ、突然それまで抱いていた人生観、世界観、価値観などが揺さぶられ、崩壊してしまうような事態(感じ方は各々ですが)になることを考えてみて下さい。
心身のバランスが失われ、虚無感などに襲われることというのは、付きものとも言えるのです。
私なんかは数日してすっかり、その眩いばかりの覚醒のあらましなど元の木阿弥になってしまい、そして一年後ぐらいして、うつ病に近いようなネガティブな思念に囚われる事態になってしまいました。
このことについて、Sさんは"光の存在"と言っていましたが、神、キリスト、ハイアーセルフ、見えざる導師...呼び名は何であれ、常に意識をそれに向けていることが肝要かと思います。もっともその精神的苦難自体が見えない導きの中にあるのかも分かりませんが...
Sさんは又、ブログで「私は悟ってなどいませんi」とハッキリ述べておりました。
私も"あなたは悟ったのですか?"と訊かれたら、キッパリ否定するでしょう。
その"目覚めに与った"事態というのは、ハッキリ実感することはあっても、"悟りに達しました"などとは決して言えないのです。
今日、多くの事例のある、突発的な覚醒などは、それに達することを目指して努力していた訳でも無く、それは"自己を超えたところで起こる"ことだからです。
それは自分が自分を超える、超人になるということでは全く無いのです。こちらの手は離れている...だから"煩悩も欲望も無い境地に達しました~"などと自己に帰されることなど何も無いのです。
"私は悟ったi"などと宣うのは、おそらく自称覚者しか居ないでしょう。
"私がどうなった、こうなった"というのは、ちっとも私が超えられていません。要するに思われたままの、自分の力で何かを為せるという自己の限界内の延長にすぎません。
むしろ、フツーの人以上に"エゴ性が強い"とみた方がいいでしょう。エゴ性に気付くことが出来ないのです。それは自己を超えたものによらなければ気付けません。
そして、常に自分を高い境地に、進んだ人間であるように人に思わせ、何か問題でも起きたら、自分をサゲないように取り繕うのです。
そういう人にとり、ありのままの自分を認めることは、おそらく悟りの修行よりも難行苦行でしょう。
一体、目覚めるとはどういうことでしょうか? ありのままの自分に目覚めることではないでしょうか?
どんなダメな、ミジメな自分であろうと、ありのままの自分を受け入れるしかありません。そして、そこに自分はそのままで、自分を超えた、自分を超えた"我ならぬ我"への目覚めに与ることになるのです。
自己を超えるとは、このように紛らわしい二通りの観方がありますが、中身はまるっきり違います。
Sさんのような人こそが、誰でもの目覚めの証人なのでしょう。

コメント (4)
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もう一つの記憶

2018-08-01 17:10:45 | 覚醒
私は30数年前、始めて精神的目覚めに与った訳ですが、それは後にも先にも無い爆発的なものでした。
この世の時間で言えばおよそ2、30分ばかしになるでしょうが、まるでそれは全ての私の生が凝縮されていたようであり、そこで一生かかっても学べないような数々の気付きを受けたのです。
こういう規模でない、小爆発はその後何度かありましたものの、ああいうエポックメーキングな事態というものは、その時しか与えられなかったのです。
それは到底言葉で言い表すことは不可能なこととはいえ、その一端はここで書かされている次第です。
では、それは私のその30数年前の記憶に基づいて、それを辿りながら無い頭を搾りながら書いていることなのでしょうか?
それは...そのようでもあり、そのようではありませんi
まず、頭の中の記憶だけで、そのように言い表すことは不可能ですi
その気付きに与ったからといって、その当時ではそのことを掘り下げて書き表すことなど、その爆発体験のままでは僅かたりとも不可能なのです。
それは、言い表す言葉が見つからないことと、そうするとすぐノボセ上がって自意識に囚われてしまって、表現がままならなくなる、というのが大きな理由です。
では、何に基づいて書かされているのか?...
それが"身に覚える"ということと関連してくるのです。
先述で、"気付きを受けた"と書きましたが、それは全く変性意識状態での"生"のままの状態について言っているのですが、それは思考、マインドには直接つながらなかったものの、細胞レベルでは覚えられていたのです。
その知られざる、もう一つの記憶というのは、忘却の彼方に消えて行くものでなく、今もなお時間を超えて息づいているのですi これが思いの記憶と全く異なることなのです。
(このもう一つの記憶は、私以外の人でも...あなたにも身に覚えがあるハズでしょ?...)
記事を書いている最中でも(そう、それは今の今であるi)、そのジンジンともたげてくるものと共に蘇ってくる...
このようになったのは、20年前の小爆発(それはあの大爆発以来のことでした)以降のことです。
ジンジン、見えざる導師、現臨、照明...これらのことは、その時の気付きが無かったならば、生まれなかったでしょう。
そこで始めて裏側と表側がつながったとも言えますが、その直後、あれほど表現するのが困難だったものが、ウソのように次から次へとボキャブラリーが溢れるようにも湧き出てくるではありませんか? (抑え難い歓喜と高揚感の中で、便箋に数十ページに渡り、一気呵成に覚え書みたいなものを書き連ねましたが、コピーを取ってなかったのが惜しまれます)
これはある意味では大爆発の時以上の気付きだったかもしれません。
これを端的に言えば..."目覚めや悟りは、思われたチッポケな自分に起こることではないi"
"それは、そうさせるもの、そのもの無しには起こり得ない"
ということに尽きますi 私は自意識の縛りから解放され、思われた自分が目覚めの内実を取り込むという、度し難い誘惑への歯止めも与えられたのです。
同時に"あの至福体験を再びi"という駆り立てるような思いも後退して行きました。
"そのものはいつも私の内に息づいている...ここにある"という実感と共に...
その気付きに与る直前、ふとしたことから愛そのものとしか言いようの無いものに、意識が捉えられていたのです。
それは確かに、時間を超えて強烈に身に覚えているものなのでした...
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神の手がかかる

2018-07-02 17:36:14 | 覚醒
都心では連日真夏日が続いています。
熱中症にはくれぐれも気を付けましょう。
どんなにガンバっても、体も心も"超特大ヒーター"の前には無力なんですからね...。
私は二度ばかしそれになったことありますが、手足や特に後頭部から首にかけて"ひきつり"みたいなのを感じたら、その徴候と思った方がいいです。
そして手足がシビれてきて、思考力も弱まってきたら...もう手遅れかもしれません。
とにかくそうなったら横にならないと絶対によくなりません。全身の血流が登らなくなるためです。
そして大抵自動的に眠たくなるのがフツーで、寝て起きたら大分マシになってることでしょう。

私がしばしば言及している"現臨に捉えられる"ーそれは意識の目覚めを伴うものですがーという事態は、その最初は実にこの熱中症とよく似ているのです。
"ジンジンしてきたあ"というのがその徴候の一つですが、そういう前触れ無しに"いきなり"という場合もあります。
そして手足というか、もう全心身にシビレを感じ、思考機能がマヒしてしまうような事態になることを私は"神の手がかかる"と言っています。
ある抗し難いエネルギー、ハタラキとの交換が始まるのです。
こうなるともう手遅れ...ジタバタしたってもう逃げられませんぞi 降参なさいi それしか道は無いのですi
熱中症の場合、心身の重さ、シンドさというのは取れなくて横になってるしか無いのですが、こっちは身体とか思考など表層部分が弱まるに比して隠れた別の部分が...そうです、目覚めるのですi 寝てなど居られませんi
又、何か、こう...ぎゅーっ、と自分の全存在を中心に世界が収斂してくる感じになる..."惹き付けてやまない"とか言いますが、文字通り惹き付けられてしまうのですi
思考機能がマヒするということに関してですが、それは完全に空無になってしまうことじゃなくて、思考とは別にその元の意識というのは保たれているのです。アレコレ思いを巡らしたりすることなどが出来なくなるということです。
そこでは、それまで信じ込んでいたある信仰とか信念とかは一端手放しとなり、思考というフィルターを通さないものに直に目の当たりにされるのです。(もっともこの"目覚めから覚めた"後、そのままその信仰なりを捨て去ってしまうか、どうかはその人次第ですが...)
このように、自分の思いを超えて起きるような事態についてどう感じてきますか?
そうなろうと思っていても、修行とかに取り組んでみても、一向にそうならないものが、"ああっ"という間にそうなる...これを恩寵と言わずして何であろう...。
それとも...自分がそれまで信じ込んでいたもの、後生大事にしてきたものを手放すことになるなんて..."裁き"以外の何ものでもないと思いますか?
ただ私は、この連日の猛暑の中で感じています。
見えざる熱射光はいよいよ強く我々を照らし、いよいよ深く浸透していくのを...我々の思いを超えて...

それを神の恩寵と取るか、裁きと取るかはあなた次第ですi


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我が主をして語らしめよi

2018-02-18 12:32:02 | 覚醒
"私は、邪悪だったり、愛想よかったり、好奇そうだったり ...コロコロ目まぐるしく変わる目をしたネコ人間...
でも...一度心を許したら、その目はいつもその主人に向けられていて、忘れることがない..."

私がここで、しばしば"現臨に捉えられる"と表現しているものは、単に身体や思考の機能が押さえられて、自動的な機能が発現するようなことではなく、そのハタラキが意識に深く浸透して、意識の変容、覚醒と言われるものに導かれるようなことを差しているのです。
で、私がスブドに関わった動機は、その至福体験を取り戻したかったからで、そこを退いてある瞑想会に関わったのも、その一つとして「もしかしてここならその願望が叶えられるかもしれない」ということが過ったからです。(何という、狡猾な懲りない性分i)
つまり、スブドに居た4年ばかしの間、そういうことに預かることは無かった訳で...その瞑想会での約6年間でも特には無かったのです。
そう、今現在そこも離れているのですが、この理由はウンと現実的なものです。
スブドとその会との明白な違いは、ズバリ経済的負担の有る無しにありますi ショボイ話、私のような底辺の人間には、会員を続けることも、各種の"催し"に参加することもおそらく困難でしょう。
では宝くじに当たったかして、裕福な身になったとしたら ...寄りを戻すことになるか、どうかは...分かりません。
というのもその後、ある修練なり、行法なりに頼ってそういうものを求める...いやそういう体験自体を求める気持ちが無くなったからです。
ということは願望が叶えられたのか? まあ、そういうことにもなりそうですが、ある時「体験そのものに意味は無い、第一それは一個人に起こるようなことじゃない」という、気付きが与えられたからです。
日夜、こういう動機で修練や瞑想に勤しんでいることもあるであろう人たちの心を折ってしまうかもしれませんが、私は"その気にさせる方法"に長年従事していても、それに預かることは出来なかったのですi (多分、狡猾な心が改まらなければダメなんでしょう?)
瞑想と関わっていた平成6年頃は、今と違ってアチコチに"分かっちゃった人たち"は現れておらず、ほとんどそういう情報に接していなかったのですが、ある時「K先生」に「ああいう事というのは、人生で一回しか無いものなのですか?」と訊いてみたことがあります。
確か、その答えは「いや、そんなことはないよi 大きいのや小さいのを繰り返して段々理解が深まっていくんだよ...」というものだったと思います。
"そうだろう、そうだろう...そうなんだi" 段々私自身も、世の流れもそうなる気がしてきたものです。
前記した気付きがあった後、特に精神的覚醒については触れておらず、"神の声が聞こえてくるのですi"などとヘンに誤解されやすいことをフレ回っている、ある合同による瞑想というか礼拝の集まりで、私は現臨に捉えられてしまったことがあります。
その集会は、そりゃもう、礼拝時に"憲法改悪反対i"などという、全く場違いな"感話"が飛び出すなど無知、無理解極まるところで、私は何度も"アホらしくて、やってられるかi"という思いにさせられたところなのです。
それがキリスト友会、通称クエーカーです。
では、その集会、そこで行われる沈黙の礼拝というのは、ラティハン、その瞑想をもしのぐものがあるのでしょうか? 多分そんなこたあないでしょう。(どっちがどっちなんてのは、勝手にやってればいいのです)
ただ、私の知らないところで、そこで真摯な祈りの滋養されたものによって、私の内なるものが呼び覚まされたのかもしれません。
この礼拝というものは、決まった形の無いもので、ほとんど何もしないで座っているだけの"元波動瞑想"と区別のつかないものです。(少なくとも私には)
ここで理解されることは、OO会とかOO法、OOの教えといったものが、"現臨に捉えられる"ことに導くものでない、ということでしょう。
それは、そこに"一なるもので、すべてなるものが顕になる"ということがあるばかりではありませんか?
いくら方法や教えがあったとしても、そのもの無くして何一つ始まりもせず、何一つ起きないのですi
その事はこの世の如何なるマスター、教えによってもあなたや私を得心させることはおそらく出来ないでしょう。
あなた自身の全人生にある"真"のマスターによってしかあなたは全的に頷くことはないでしょう。
クエーカーの"沈黙の礼拝"というのは実に素晴らしいネーミングだと思います。
それはあらゆる宗教、道に内包されていると言えます。

我が主がここに臨めば、すべての喧しい、真しやかなご託は沈黙せざるを得ない。
我が主をして語らしめよi




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主に取って代わることは出来ない

2018-01-26 17:03:10 | 覚醒
「如来住とは、如来が主体者に安らうことであり、したがって主体者が如来に安らうことである。如来が主体者に一つに融けて、ただ如来のみに、言い換えれば、形なき命のみに全有される。それゆえに、一切の煩悩は、尽き果て、なすべきことはなされ...絶対空滅となる」
「しかしながら、それは同時に業熟体に根ざしているゆえに、主体者はきわめて危険な陥穽に臨んでいることも確かである。その陥穽とは、底なき業熟体から噴き上げてくる我執のために如来住たることが忘却され、単なる絶対空滅であるという意識である。それは、もはやそこから這い上がることの不可能なほどの危険きわまるものである」
(玉城康四郎「道元.下」春秋社刊)

「ただ悟りたいだけなら、それはエゴからのものであって魂からのものではない。自分自身を探し求めるとき、もはや悟りという言葉はどうでもよくなる」
(アジス.クリストフ「ヒューマン.ブッダー魂の探求者へー」アルテ刊)

私はこれまで何度となく、精神的目覚めというものは、仏教的には如来、キリスト教的には聖霊、私的には見えざる導師、何らかのガイダンス...というもの、その導きと共にあるものであることを言ってきました。
これはいくら強調しても、し過ぎることはないくらいです。
自覚意識の有る無しに関わらず、そうしたことに赴かそうとすること自体がそういうものなのです。
そうした形なき命が意識に芽生え、やがて内奥に浸透し、全心身にあたかも別の生き物のように住するようになるのです。
この内なる導きの主体とは端的に、親しく表せば"我が主"です。
目覚めの契機、時機、如何なる有り様で、といった魂の道のことは我が主に委ねられていると言ってもいいでしょう。
それは全くこちらの思議の及ばない消息なのです。
このチッポケな私は、決して魂の親である、我が主より先に勝手に独り歩きなど出来ません。
主に取って代わることは出来ないのです。
この主のお在さない、恩寵の導きの無い、意識の変容の事態というものの片鱗も私は何度も書いているように知っています。
そこには愛も平安も無く、ただ意識が奈落の底に消えて無くなってしまうような恐怖だけがあり、主が私に臨んだということは、そもそもがその苦境からの解放されるという契機だったのです。
スピ界に蔓延している、主の恩寵無くしてどうともならないにも関わらず、"完全覚醒"だとか、"究極の..."だとか、優越感をくすぐるきらびやかな言葉に幻惑されて、思われた自分をより高めようとする風潮を見るにつけ、私は表層にある思いを一先ず脇に置き、自分の魂が本当に求めているものは何か、自分の土台に導きの主体というものはあるのか、ということを問うてみる必要を痛切に感じています。
魂の求めるものと恩寵のハタラキというのは分けられないものですから。
自我意識の拡張に基づく、覚醒への企てはその発露を覆い、歪めてしまうものでしょう。
主が臨むこと、主の望みとは、自分の思い、計らいを超えて内なるものとつながることを求めずに止まないものが有るか、どうかということでしょう。
この事が蔑ろにされるならば、まさに主客転倒と言うべきでしょう...。

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