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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生と死のエンライトメント

2017-05-07 16:20:45 | 覚醒
いつも愛読していた、エンライトさんのブログが数か月前突然閉鎖してしまったと思っていたら、亡くなられたそうですね。
以前からその事をブログで仄めかしていましたが、やはりそうでしたか…
思えば、「裏宇宙からの遺言」なるブログ名も何やら暗示的でした。今更ですが、これは無明庵EO氏の「虚無宇宙からの伝言」をパロっていたんですね。つい最近知りました。
この両名が相次いで他界してしまうとは、実に因縁めいた話ではあります。
この方の記事には”永久保存にすべきものがあった”、と私は感じていたものでしたが、本人の意志によるのかどうか分かりませんが、消去されてしまったのは如何にも残念なことです。
この方は歯に衣着せぬ批判的コメントをしておりましたが、単なる中傷・誹謗でない批判というものは必要な事だと私は思っています。
それをしない人はしないでしょうが、する人は絶対必要です!
スピ界に限らず、如何なる分野のものでも、そのようにして土壌は切り開かれ、掘り下げられ、深められてゆくものだと思うからです。
それはさて、上記のことは、占星術師Aさんのブログで知り、そこでコメントしようとしたのですが、ややこしいシステムが有るのでやめました。
書こうとしたのは大体こんなことです。
以前にも書いた事ですが、悟りや覚醒、エンライトメントと言われるものは、思いを超えたものであるので、元々定義など出来ようことも無く、それぞれ観方、感じ方というものがあります。
Aさんはこれをノンデュアリティに関連づけて、自身の体験を述べておりました。
それによると、”自分が無くなってしまう、思考も感性も、苦しみも至福も無い…と。
まさに非二元的なもので、体験する自分も無いと言えそうなものです。
これを踏まえるとオカシナことになるのですが、本人がそう感じたのでしたら、きっとそうなのでしょう。
私もそんな感じになったことも有りますが、それは死と狂気とが隣り合わせになっている事態と言ってもいいものです。
エンライトさんもEOさんも同様の体験のことを述べております。
これは、カリスマブロガーであり、ノンデュアリティの火つけ役のAさんがその活動の契機となった、エンライトメント体験とは異なるものでしょう。
彼は何度もそれは至福を伴うものだと言っていましたから。彼が広めたノンデュアリティの看板には偽りが有ったのです。
エンライトさんはそのことを指摘していましたが、しかし、彼が言いたかったのは、”そんなのは本当のノンデュアリティの道じゃない、ウソなんだ、騙されるな!、本当のものてーのは…”
というような事では無かったハズです。お手軽なノンデュアリティ・ポピュリズム?への警鐘といったものでは無かったでしょうか。
教師と追従者との非二元ならぬもたれ合い、集客して講演をして瞑想法で商売をするという直接的道ならぬ二元的スピ稼業の道…
そして、そこに取り巻く生の享受、賜ったものへの裏切りとも思える空虚なゾンビ的思念…
何が本当の非二元の道なのでしょうか…幸福も無く自分も無くなってしまえば、本当もヘチマも無いじゃありませんか!
抽象的な観念世界で分かったつもりの人には、ブラック・ホールのように思考も感覚もそして意識も吸い込まれて行き、死の世界が広がっているのを理解出来るとでも言うのでしょうか!悟りを極めようというのは、極めようとしている自分の観念でしかないのです。
そして行き着くのは虚無のうちに熔け去るか、永遠の死のみでしょう。
ここには、忌まわしき、憎むべき自我の解放ならぬ永遠の消去へと向かう情念、自死への誘惑といったものを感じるのは私だけでしょうか?
私がここで書いていることは、言うまでも無く”現にここに生きている”という事が大前提なのです。”死の世界のことは、死者をして語らしめよ”
生きているのか、死んでいるのか分からない非二元の道はともかく、このエンライトメントと言われるものには、幸福というものも無い、と言い切れるものではありません。
というより、これまであらゆる精神的道で伝えられてきた、そうした言説というものは、上記カリスマブロガーAさんのものも含め”如何に幸福に生きるか”という事と結び付けられていたのではないでしょうか?…でなきゃ”死への手引き”みたいな忌まわしいものは、墓場に埋まったままでしょう。生きる屍が何を伝えようかというものです。
ラマナ・マハルシが言う至福とは、不幸というものと裏表の消えて無くなるような幸福でない、ずっとそこにある幸福のことを言っていたのです。
感じ方はそれぞれある…一面的な観方に偏向してはならない、という事もエンライトさんが度々指摘していたことです。
忘れてならないことは、エンライトメントは、そうさせるもの無くしては起こり得ない、という事です。
そして私は思考も感覚も消え、意識そのものになって、至福に包まれていました。それを受け容れるしかなかったのです。
至福でないものには赴くことも導かれることも無かったのです。
おそらくはある種の瞑想の技法などでは、その恩寵というもの無しでも、思考も感覚も超える事はあるかもしれません。だが、そこに至福が有るのかどうかは私は知りません。人がどこに赴くのかも知りません。
恩寵の無いところ幸福も無いでしょう。
私には恩寵と切り離されたものは、エンライトメントと言うことは出来ません。
それはただの自己の死滅でしょう…そこに恩寵が有れば、よしんば死という運命が待ち受けていようとも、死の恐怖は乗り越えられるでしょう。
世人が言う死とは、死の恐怖でなくて何でしょう。そこでは死が死でなくなる…

エンライトさんは果たしてどう感じていたでしょうか?
そのハンドルネームは…ほお…エンライトっていうんだ…












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生きるための私的一元論

2017-01-28 18:33:16 | 覚醒
最近、ネットを見ていてどうも悟り、覚醒、ノンデュアリティなどの言葉の使われ方が錯そうしているように感じています。
これらは感覚的な事に基づいているため、確たる定義など成り立たないものであるのは言うまでもありませんが、このように元々がアヤフヤな土壌の上に、一昨年辺りから悟り系スピなどでにわかに如何にも”これがノンデュアリティ”といった紋切型の言説が流布し初め、その虚無的空気感で実体の定かでない悟り、覚醒のイメージを作り出してしまったように思えます。
私自身は元々非二元だの、二元だののことをほとんど問題にしたことがありません。
ただの感じ方、観方に過ぎない、と思っていましたから。
問題は如何に幸福であるべきか…これを思わない人間など居るだろうか?
悟りというものが有ったとしても、幸福でないものが一体何の意味があるだろうか…そしてそれは当然の如く全くもって現にこうして生きている私にとっての問題だったのです。

何度も触れているように30数年前、突如意識が飛びそうになったことがあるのですが、これは意識の変化に伴う一時的なアンバランス状態と理解していますが、その時思考機能は失い、自分という個的な感覚も無くなり、意志的に何かをしようというものが抜け落ち、事が起きているだけという感じになります。最近のノンデュアリティではおなじみのフレーズですね。こういう事を悟りとか覚醒という風に観る向きもあるようですが…それって”ホンマでっか!”
そこでは苦しみ、悩みというものは感じられませんが、この後実感したような高揚感、幸福感というものも無いのです!
(これはそうした苦境を通っているからこそ実感したのです。”私はここにいる”という意識の発揚と共に…)
ただ自分が奈落の底か虚空に消えて行ってしまうような恐怖感だけが有るのです!
ズルズルとそうした方に引き込まれそうになるのですが、意志的な抵抗が出来ないのです!
ノンデュアリティの教師たちやその信奉者たちが嬉しそうに?語る非二元の境地ってこんなんですか?…ウッソでしょう!
彼らがやたらと話を盛り付ける無条件の愛、至福、調和…そんなものはありません!
如何なる幸福もそれを感じる個人が居ない…そんな世界を求める人間などこの世に居るのでしょうか?ただ苦境から逃れたいだけなのだろうか…喜びも楽しみも無く…全てに絶望した人間の行き着くところ?
永遠の死の世界…
あの人たちは本当にそんな境地に有り、そこを目指しているんでしょうか?
違うでしょ!…そんな人はきっと、薄暗い部屋でずっと何もしないで、ネットで色々メッセージを伝えることも出来ないでしょう。そもそも生きているのか死んでいるのか分からないようなメッセージなど何になるでしょうか?
愛や幸福のおとずれについて語る人というのは、それをもたらすものに触れているからこそ言い表せるのでしょう。
何でこんな分かり切ったことを伝えないのだろう…きっと彼らが説いているのは、非二元を借りた、その実(愛とか幸福とかを織り込んでる)二元的な道なのでしょう?
だからと言って、私はエセでも一元でも二元でも構やしないと思いますけど…
何が真のノンデュアリティなのか分かっても…死の世界のことは生きている世界には全くどうでもいい事ですから!
参考までですが、あくまで私なりの分離の無い、所謂ノンデュアリティについての一つの観方が有ります。
それは特定の教え、教師、方法といった間に何ものも介さない直接性というものです。(何と何の間…というより直接的なハタラキだけが有る、というニュアンスです)あなたは直に愛自体、幸福自体を目の当たりにする!
これによれば、非二元の”教え”や、”メソッド”というのはウソなのです!…教えや方法に置き換えられるものは二義以下のもの、この意味合いではそれが二元的ということです。
そのまんま直接…ということはそれだけ愛そのもの幸福そのものが真っ中心…という事です。
そして肝心な事は私があなたにこの事を伝えることが出来ない…あなたが直接触れ、感じ、味わう事を通じてのみ伝わる、という事です。
こういうものに導かれない悟りも覚醒もホントにどうでもいいのです!…愛自体、幸福自体なる御方との一義的有り様…
これが私的一元論なのです…。













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自己信頼と回心

2017-01-26 14:03:47 | 覚醒
私は、手島郁郎先生や小池辰雄先生との出会いから、キリスト教に伝わる聖霊のバプテスマなるものによって、回心、人生を変えるような意識の変容というものが有る、という事を知らされたのでした。
ところが同じ聖霊を強調する教派でも、欧米直系の所謂カリスマ運動とか、ペンテコステ派などと言われる教派などにはほとんど関心が向くことはありませんでした。
”初代教会に見られた聖霊の命のたぎった福音に立ち返ろう…”似たような事が主張されるが何かが違う…
そうした著書を読んでいても、ダイレクトに惹きつけられていく感じでは無く、何か外側から暗示を掛けられていくようなものが感じられました。
そして、何となく読めてきました。”これは教理を植え付けようとしているのだ”、という事が…
こうした福音集会の中には、インチキもあるそうですが、本当に霊的な力が認められる場合もあり、そこで所謂聖霊体験というものもあるかもわかりません。
これも一種の覚醒体験とも言えるかも知れませんが、そのすべてが私がこのブログで書いているような全託を伴う道に通じるかどうかは疑問です。
何故ならば、教理、教会、権威などから自由でないままで、すべてを放し、託すという事はあり得ないでしょうから…(人は皆何かに依りかかって生きているものですが、程度というものはあれ、偏ることでどこか歪みが生じるものです)
杞憂すべきは、そうしたものに捉われたままであっても、ある霊的な力によって、それ相応の有り様で意識が変容する事も有り得、その捉われている部分が強化され、その分”狂信性”が生み出されることになりかねない、ということです。私はこういう事例のいくつかを知っているのです。
狂信者の特徴としてとにかく自分が信じている対象(神、教えなど)については過度な熱狂を示すものの、信じている主体、つまり自己そのものには意識が向けられない…要するに自己信頼が欠如しているのです。
(この事は勿論様々な道についても言えるものであるのは言うまでもありませんが、ここではキリスト教の関連で述べさせてもらっているのです)
自己信頼というものを欠いては、自身の内側は蔑ろにされ主体性を失ってしまうでしょう。
聖霊というか、恩寵の光が臨むと、自己の内部が照らされ開かれてきます。そこに全幅の信頼が生まれるのです。
そしてそこから思われたままの自分が突破されて、”我ならぬ我”、真我と相見えるのです。
それは全く未知の自分であると同時に、自分が生まれる以前から(ひょっとして二千年前から?)知っている自分なのです!
新約聖書マルコ伝15章に、イエスが十字架に掛けられて最後に叫ぶや、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という記事がありますが、これは覆い無しに、あらゆる介在、夾雑物は取り除かれ直接キリストと相見えるようになった、という事を象徴しているのでしょう。それは又内なる神性の回復とも感じられます。
「このダメな、チッポケな自分がそのままキリストと一つにされる…十字架を通して…」これは小池先生が常々語っていたことですが、教理を信じてそうなるんじゃありません。聖霊の直接的な身受、体受(先生の造語)を通じてです。十字架は又全託に通じているのでしょう。
ところで私が恩寵の光、現臨に捉えられる、と言っているものが聖霊体験なのか、どうかは分かりません。小池先生が亡くなってずっと後の集会でそのような事も有りましたが、それでクリスチャンになった訳でも無く、我ならぬ我に出会わされるのです。
前記のカリスマ運動などでは異言や預言など聖霊体験に伴う超自然的な力を求めることを強調したりしますが、その事と真我の目覚めとは何の関係もありません。
キリスト教に限らず真我、自己の本心が開かれることのない、主体性を欠いた宗教的回心というものに何の意味があるでしょうか?…又、自己の無化に向かわない、中途半端な全託はキケンという他ありません。

私はこのように聖霊体験というものが有ると知り、無性に惹きつけられたのですが、反面”自分の意志に反してクリスチャンになったらどうしよう…”などという変な了見もあり、又見た目何かに憑かれている様で”アブナイ…”とも感じていたのです。(後年別の場で自分自身がアブナイようなことになりましたが、何かに憑かれ、操られるという事は無く、前述のような事を実感したのです)
それが、いつの間にか、目の中のそういう覆いは無くなってしまいました。
覆いが無い…夾雑物の無い直接性…それは自己の内と外が信頼で結ばれるもの…ということを覚えるようになったからです。
”十字架と聖霊は切り離されない”(小池先生)ように、自己信頼と宗教的回心も切り離すことが出来ないものでしょう…。



















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神と共なる覚醒

2016-10-01 00:01:41 | 覚醒
私は超アナログ人間でしたので、ネットと関わるようになったのは、つい3年ほど前という次第なのでした。
ですからスピ界の動向というのも、それ以前のことはよく知らなかったのです。
最近一昔前のネットを探っていたら、覚醒体験に関する記事で溢れかえっていますねえ…
で、読むだけで偏頭痛みたいなのが起こるってえのは、一体どういうものなのでしょうか?
今の私はああいう渦の中には正直居たくないですね~。
もう、”エゴというものは…真我というものは…本当の悟り、今だしの一瞥…こうこうなんです!”…って、もう、分かりましたよ!、皆覚者さんですよ!…私は?…”居ません!”と、言いたいです…。
覚醒体験ばかりが独り歩きしている、という事は、ブログを書き始めていた時から感じていたことですが、ぶっ飛び体験そのものを求めるんでしたら、合法ドラッグでもやればいいんじゃないですか?…脳内物質増強剤なんてものが有れば…
漏れ聞いている話では、覚醒体験者の中には、鬱病や意識障害になってしまう、という事態も起きているようです。
自己がいきなりワンネス…こりゃあ、何もかもぶっ飛んでいる…何かとても重要なものも飛んでいるゾ…
私は何度も、そういう事は神的なもの(守護の神霊、ハイヤーセルフ、真我、キリスト意識…名称は何であ)の導き、その臨在の中で起こる、神と共にあることの内に有るもの、ということを強調してきました。
過去のことを回想風に書いているのも、神的なものへの探究心から自然に芽生えた、あの気付き、あの精神の高揚…それは今、現在のそれ、神と共にあることとつながっており、覚醒という事態もその事と離れてはいない、という事…いや我々が気づいていようと、いまいと全人生というものが、その基盤有ってのもの…という事を模索してのものなのです。
とはいえ、やはりその体験はあまりにも鮮烈でしたので、私も実は体験そのものに捉われてしまったのでした。
それが数日後、元の木阿弥になり、日常意識に戻った時、”あの体験は高熱に浮かされた幻覚かも知れない…”という疑念がもたげてきたのです。
これにはいくつかの思いが交錯していたのですが…
ただ、どうしても私には、よしんばその体験が幻覚だったとしても、どうしても、どうしても…疑いきれない、拭い去れないものが残ったのです…。
”それは何が、あの眩い目覚めをもたらしたのか…”という事だったのです。
何よりも、”私はここに居る…忘れないでほしい…”と魂に直に訴えかけるような現臨の声なきメッセージ…
そして私は意識的に封印することにしました。その主な動機は、私のすぐノボセたがる自意識に押しつぶされそうになったからだと思います。
といっても、どうしても完全にはフタ締めなど出来ません。上記の理由で…
上記の思いは私の意識の奥でずっと生き続けていました。そしていつかあの事を外に向けて表し、伝えたい、という気持ちも強く持ち続けていました。というより、それは内なる促しのようなものでした。
ただ、私のすぐテング性に転じてしまう自意識と、それを抑えようとしている自意識との葛藤があって、中々手が付かなかったのです。
しか―し…今やもう吹っ切れました。テングでも鬼でもござれ…
私は体験してどうなった、こうなった、という事を伝えたいんじゃない、神的なものは生きて、ハタラいている…このものと共にあることによって魂の平安も目覚めも世界平和もある、という事を伝えざるを得ないのです。
覚醒体験に憧れを持つ気持ちも分かるのですが、私はずっと書いているように、幾多の先人たちとの機縁を通して、神的なものと親しむことで喜びを感じ出したのですが、この事と切り離されてはいないのです。
神への祈りは、著しい体験に付き物の心身に及ぶ危険に対する最大の防御にもなるし、その愛の導きに育まれることで、然るべき契機に魂の目覚めも訪れるでしょう…。








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私は悟っちゃいない

2016-09-07 13:53:34 | 覚醒
精神的な道を歩んでいる人たち(ことに修行系の人たち)には、根強く思い込まされていることが有ります。
悟りとか魂の目覚めに預かるには、”欲望を捨てなければならない…”、”この世は迷いの世界だから、そうした思いから離れなければならない…”その実体など確かめられそうにない、”前世からのカルマが解消されねばならない…”とか…。
何十年もそんな事言い続けてる人を知っていますが、その人は未だにそうしようとして、そうならない、という事を自証しているのです。(笑)
”そうならないものなんだ!”と気付くことが、皮肉で無しにある種の悟りだと私は思いますが…。
この限界ある、欠陥だらけの自分が悟ったり、覚醒するものだという思いが抜けきれないようです。
まあ、人間はどうしたって自分中心に生きているもので、自分に捉われてしまうものですからね。
そして”もっともっと努力して、何かを習得して、その積み重ねの上に目差すものが開かれていくものだ”とエライ人から奨励され続けてきましたし…
神もそう促すのでしょうか?…”もっと修行に励まなければ罪は許してやらない”とか…
偉そうに言ってますが、私は修行を志すにはあまりにも、そんな気根など無かった者でしたが、ご多聞に漏れずそういう思いに捉われていました。
そういう修行もしてない、出来ない自分にもかかわらず、私の人生にあるピリオドが打たれることになりました。そして知らされました!
”何も分かっちゃいなかった!、何も出来やしなかった!、そもそも生きていたのか、死んでいたのか!”
思いを超えたもの、現臨が切り込んでくる…それは”何もかもが思われた通りのものでは無かった¡”という事が根底から示されるという事です。
これは、そうしよう、そうなろう、ということで無しに、”そうなってしまう”ということなのです!
つまり、あなたに出来る事は何も無い…何かをしなけりゃならない、というものは無いのです。
(もっとも、あなたは何かを始めるかも分かりません。ただあなたはそうせざるを得ないから、そうするまでです。惹きつけてやまないものがそうさせるのです。やはり”ねばならぬもの”は無いのです)
悟りとか覚醒というと、どうしても光明に包まれることと結び付けられますが、私は何度でも言いたい、それは真っ暗闇に包まれることと一つのものなのだ、と…。あたかも巨大な積乱雲の上部と底部で、眩いばかりの白と光を覆い尽くさんばかり黒のコントラストを表しながらも一つのものであるように…この暗闇の中ですべての機能を失い、自らの無知、無能を”悟らされ”ます。あなたの思われた世界はいったん終わったようになるのです。(それで消えるのかどうかは知らないですが…)
私は光明に預かるような事よりも、むしろこの暗黒の福音のことを強調したいのです!
それは我々の自我性というものの何たるかを知らせるものです。それは限界あるものであり、その限界の告知の無い場合、我々の意識は飽くこと、上限を知らない上昇、拡張、増進へと駆り立てられて行きます。全く現代文明というものが映し出している通りです。
ひたすら高い次元、光眩い、思い描いた理想ばかり向けてのあくなき自己拡張の試み…しかし、そうならないのが常の道というもの…その通りには行かない事のほうがむしろ救いとは言えまいか!…悟ろうと試みる事が、その実悟りとは程遠い道を歩まされているのではないでしょうか?
その限界ある自分というものを知らされる事無く、ダイレクトに光と一体にならんとすること、神の如くならんとすること、そこにはあまりにも強い太陽の光に焼き尽くされるような運命が待ち受けているのではないでしょうか?
こうしたことは、媒体となるハタラキ、見えざる導き、というものがおざなりにされることでそうなるのです。
この我らの主の導きによっては、自身の神の如き本来性を知らされることも…有るかも知れません。
それはしかし、自己の限界性、無の事態というものを知らされることと切り離されては無いのです。
無というのは無きことであると同時に、無限にも通じているのです。無即無限。
それは、このプロセスを欠いた神人合一というものとは、天と地程の開きが有ると言っていいでしょう。
巷に溢れる悟りに関したキラキラとした言葉の中にあって、私が自負心を込めて言える事はただ一つ。
”私は悟っちゃいない!” (んなもん、分かり切ってるってか…)












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