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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

聖霊のバプテスマと覚醒

2022-05-10 10:26:20 | 覚醒
私がキリスト教について色々知るようになったのは、ようやく大学4年ぐらいになってからでしたが、その入信時に行われるとされる、”洗礼”という儀式のことなど全く興味ありませんでした。
それは、入信する気も無かったということですが、私にとって洗礼とは、ズバリ”聖霊のバプテスマ”のことを差していたこと以外の何ものでもありませんでした。
これは小池辰雄、手島郁郎両先生の影響に依っていた訳ですが、それは所謂精神的覚醒体験とも結び付けられていたのです。
今と違ってそういう情報は流布されておらず、私にはそれは、宗教的回心体験として認識されており、それはもっとも最初に、そしてもっとも関心が向けられたものだったのです。
このように、本来の洗礼とは儀式にあらず、”霊の洗礼“に他なりません。又それ自体入信を意味していたものでは無いのです。
“もっと神を、イエスを信じてから受けなきゃならない?”...バカな!、私が“現場”に居合わせた経験で言えます。キリスト教のキの字も知らなくても、聖書を読んだことが無くても、それを受けることが出来るでしょう。
もっと一般的なキリスト教について知ろうという気など...思う訳無い!
それが人生の一大変容に与るものかもしれないのだから!...
ところがそれを受けることに強いあこがれを持った反面、警戒心も拭い去れないという、そういう迷いを抱いたせいか、何度となくその集会(小池先生関係の方。会員にはなりましたが、キリスト者になったという自覚はまるでありません!)に連なっても中々そういう契機は訪れなかったのです。
そしてしばらく経って、そのようなことは、集会の外で起きたのでした。”ような“ということは、そう思いはしましたが、それが聖霊のバプテスマかどうかは分からなかったのです。
神か、聖霊か?...そう、思いを超えたものの現臨は確かにアリアリと感じました。
だが、多くのキリスト者がその契機において証言している、イエス.キリストの現臨、現存と結び付けるものは特に感じられなかったからです。
とは言え、目からウロコが落ちた(使徒パウロ)感じ、生まれ変わったような感じ、そう、愛、平安...そこで異口同音に語られるものは感じたのでしたが...
しかし、何もかもがこれまでの人生経験に無かった、ぶっ飛んだものだったので、正直何をどう理解していいか分からなかったのです。
集会の中で起きたことなら、その指導者などから説明を受けて納得させられることもあったかもしれず、あるいはキリスト者として歩むことになっていたかもしれません。
しかし、それは言うまでもなく私に...他の誰でもない私に起きたことだったのです!
このことは、キリスト教における聖霊のバプテスマも含め、すべての精神的覚醒について言えることではないでしょうか?
一人一人顔も性格も生き様も違う生の有り様にあって、先のように共通に語られるものはあっても、一律一様に、類型的に語られてしまうのであれば、私はそこに、“私のすべての生の主なるもの”との出会いを認める訳にはゆかないものを感じずにおれません。
もっとも、そのことを本当に実感したのは、ずっと後のことだったのですが...
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覚醒と断念

2022-04-24 09:46:27 | 覚醒
“求めるべきは悟り、完全覚醒!...その境地を目指して!”...
とか言ったって、それは意志力、思考マインドが働いているうちの話です。
それが残っているうちは、中途の段階だとは一応は言えるでしょう。
だけど、こういう言葉はけっして軽い気持ちでは言えないものです。理由は先の言葉をよ~く考えてみたら分かるでしょう?
一体誰が自分の力だけで中途の段階から先へ行くことが出来る、というのでしょうか?
これは全く持って、思いを超えた神的な図りに依るとしか言いようが無いのです!
そもそも、そうした思いを超えたものからの促し、後押しのようなものに依らなければ、そのステージに立つことすら出来ないでしょう。
この事実を何も分からないものがそれを目指そうなど、実に身の程知らずという他ありません!
中途の段階で留まっているのが神慮なら、それに甘んじているより仕方がありません。
つまり、断念しなきゃならないのです!
もし、そこが超えられてしまったなら...何をどうすればいいのか?...いや、だからどうしようもないんだってば!...ゆだねるしかありません!
思考を働かすことは出来ないけれど、意識はあります。ゆだねられるもの、導きというものは感じられます。すべてはこのものに依っているのです!
こっちの思いも力も明け渡される、ということはそこで、そこに落ちてしまう、落ち着くということです。
何故、そのように導かれてしまうのか?、これはいつも言っているように、愛、平安が感じられるからなのですが、そこでもたらされる至福に落ち着くと言ってもいいでしょう。
これについて、“その境地に留まっていてはならない、まだ先の境地があるのです!”などと言ったりするのは、全く的が外れていると言う他ありません!(よく考えてみて!)
ただ、思いを超えた意志のようなものは感じられます。それにゆだねるしかありません。
そう、最初から最後までゆだねるしか無いのです!
ということは、中途半端な自分の思惑とか欲望とかは入る余地など無いということです!
このことは考えられるうちは、よく考えた方がいいでしょう。
ハナっから自分は、本当に悟りたい気持ちなどあるのか?、ということも...人より高い境地を目指して優越感に浸りたいだけなのか?
そういうことなら神かけて言います!...中途半端ならおやめなさい!
マトモな人間に戻ることも出来なくなってしまうでしょう(いや、ハナっからマトモじゃないだろ!)。
まあ、人間は皆中途半端な生き物なんでしょうけど...分からないことは分からなくていい、なれないものにはならなくていい...やっぱり何ごとも断念して、ゆだねるしかない...何ごともそこから開かれることもあります。
それに安んでしまいます。特別なことは別に無いのですがねえ...。

コメント (2)
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至福以外の何ものも無いi

2022-03-07 10:18:55 | 覚醒
前回も書いたように、宗教の狂信者とかある観念に囚われている人は、中々精神的目覚めに開かれることがありません。
そっちに意識が向いていない、その気が無いのですから...だからいつまでも囚われ続けているのです。
何かを思い、信じ、やろうとする自分が居て、その信仰なり、修行を一段一段重ねて行った先に覚醒といったものがある、と信じて何かに励み続けるのでしょうが...その先にはそういったそれまでの苦労、努力はご破算になる運命が待ち受けているかもしれない、ということなど思い及んでいるのでしょうか?
いや、どっかでそのように感じているかもしれません。覚醒にはそういうものが付きまとっているということが...
だからその気が無いのです。こういう人が向いているのは別のところにあるのでしょう。
"今よりも、人よりも高い、進んだ境地に達したいi"...神の道どころか、別の魔道が開かれるのは目に見えているではないかi
こういう人は、覚醒の夢を見続けているようなもんじゃないですか? だから、さっさと目を覚ますべきなのです。
時に、こういう人から"神に至るには全託することだ"、などという、場違いな言葉も発せられるようです。全託するというのなら、それまでの努力などご破算になったとしても本望ではないか?...それが本懐ってもんじゃないのかi
きっとその努力は報われるでしょうが...それに引き換え、中途半端などっちつかずの努力などi...
思い、やろうとする自分がガンバッているか、神的なものがそこに顕現しているかどっちかしか無いのですi
これはイエスでもブッダ、老子、五井先生でも等しく伝えていることです。
神が現前している時、こちらの思いも、為そうとする力も無化されているのです。この状態においては...そう、すべてをゆだねるしかありません!
ただ、それで本当に思いや力や欲望が無くなる訳じゃなくて、覚醒の、神が現存、現臨するステージではそうなる、ってことです。
又、それまで築いて来たものがすべて無くなる、って訳でもありません。そうなるかどうかは本人次第でしょう。
はっきり言えることは、それまで思い、為して来た人生に、ある一応のピリオドが、大きな節目がもたらされるということです。
有り体に言えば、その時から自分が思っていた人生では無くなるということです。自分の思い、力というものの限界がアリアリと示される...これが大きいことなんです。
こういう風に書くと、その無の道というのは、よほど暗闇に包まれているようで、つらく、苦しいもののように感じられるかもしれません。(だからその気が無いi)
又、そういう道を通らないと、至福には導かれないと言っている例も結構あります。これは、しかし捉えようの問題でしょう。
もっと大きなスパンで、人生のつらく、苦しい経験をしたもので無ければ、そういうものに与れないのかもしれません。
そういう思いをイヤというほどしている...どんなに努力しても報われることが無い...思おう、信じようとしてもそうならない現実...(こういうことを全く感じない人間て居るか?)
すでに言い知れぬ無力感に押しつぶされている...おそらく、そういう思いをして来たという人なら..."向いて"しまうのではないでしょうか?
思いを超える、ということがどういうことなのか?、それに与る前から知らされているのではないでしょうか?
そして、思いのヴェールの向こうにあるもの...
(読み手に先入観を与えてしまうといけないので、これはあくまで私の主観と思って下さい)
神の現臨にあって、思考、能力の機能を失っている間、文字通り何もかも無いという感じです。
苦しみなんてのもありません。そうなるまでは確かに頭痛、発熱などで苦しかったのですが、それを忘れてしまうに余りあるものに出くわしたのです。
それは言うまでもなく、現前しているものから来るものです。
"至福以外の何ものも無いi"...


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体験は必要か?

2021-05-26 11:54:29 | 覚醒
私がこのブログを始めた当初、どっかで外に向けて、悟りや覚醒体験といったものを推奨するようなことを意識していたところがありました。
それには、折から所謂ノンデュアリティなどの悟り系スピが隆盛になる兆しがあり、アチコチでそういう事例が報告されているという時流に乗っかった部分もあったのです。
しかし...ネットなどでそれらに当たってみて、如何にもその体験そのものが独り歩きして取り沙汰される傾向、又ある集会でその体験に与った人が、人前で突然、大声で笑いだしたりなど、一寸精神的にバランスが取れていない様に接し、そこに何かとても重要なものを欠いていることに気付き、"体験すりゃいいってもんじゃないi"、ということを身につまされて感じることになったのでした。
まず、悟り、覚醒というものに、自分自身のこととして意識を向ければ...これはそれをもたらす源泉、神的なものに目覚めることであるのは自明ではないかi...悟りや覚醒自体を問題にするのなら、ただぶっ飛んだという異常心理と大差ないではないか?...神に根差さない体験など何の意味があるだろうか? だから、そんなものよりも神がアリアリと臨むような、"神体験"をしなければならないのですi...
なーんてそんなこたないi
ああいう体験に与ることは、それを通じないと分からないことがある、つまり未知のものであるのは一面の事実です。
しかし、それはそれ以前から内心感じていたものであったのも事実なのです。
内心...普段は意識されていないということ、頭脳知では知られていないということ...つまりそこで呼び覚まされるものは意識する、しないに関わらず、ずっと我々の内に息づいているものに他ならないのです。
呼び覚まされる...その瞬間誰もが"そうだったのかi"、と全身心が頷かざるを得なくなるようなことです。
これは、ある意味で、失われた記憶の回復でもあるのですが、回復されるものは、いつだってここにあるのもホントのことではないか?
以前、私はそういう体験をしたいという知人に「どうして、あなたはそういう体験をしたいのですか?」と訊いたところ彼は「だって、それは今生で味わえないほど素晴らしいことなんでしょう?」というので、私はさらに「体験したこともないのに何でそんなことが分かるのですか?」と訊いてみました。
私がこういうことを訊きたくなったのは、彼が頭の知識だけで、そう言っているように感じなかったからに他なりません。
私の内部で同調するものがあったからなのですが、それは私自身あの体験のずっと前から内心感じていたことでもあったのです。
彼にはそういうものが感知されたのですが、又神への怖れ、罪の意識も感じられ、それが進一歩を躊躇っているように感じられました。(その後のことは久しく会ってないので分かりません)
体験というものを特別視し、それ自体に囚われると、この内奥に息づくものに中々気づくことが出来ません。
ああいうことが無いと愛、平安に与ることが出来ない...そんなことありません。
私はずっと感じていました。今でも...ですi いつだって体感出来ることなのです。
体験も無いよりはあった方がいいのかもしれませんが、もしそれが一時の爆発的発出にすぎず、そのまま消え去ってしまうものなら、いつも私の命の源に触れて、安らかでいられる方がどれだけ有難いことかと正直思います。
それは、普段当たり前に思っている幸福に意識的になってみる...広い意味での祈りを通じて実感されてくるでしょう...。
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覚醒の原点

2021-05-24 12:06:31 | 覚醒
悟り、覚醒、ワンネス体験...呼び名は何であれ、今日色んな人が色んなことを言っています。
前回も書いたように、各人は思考機能が回復したところで、色々考察を加えるなどして語っている訳ですね。
しかし、そこには多く異口同音に語られることがあるのも事実です。
そこにある普遍性を見い出すことも可能でしょう。
それは、正にそういうことに与っている渦中にあることを伝えている部分のことです。
それは生に、直にそのものに向き合わされ、純粋に感覚されていることであり、考察を加えたり、解釈をしてしまう余地の無いことに他なりません。
関心のある人なら、今さら言う必要の無いほど馴染みのあることですが、大まかに言えば次のようなものでしょう。
O自分という個人が無くなる、自他が分離していない感じ、一体感。
O自己を超えた大いなるものとの一体感、導かれている感じ。
O至福感。
すべての人に聞いた訳じゃないですが、大体はこうしたものに与っているのではないかと思われます。
感じられるものは、色々はありません。一つのことに帰してしまうのではなかろうか?...そう、分離してない。
そして、この直接的な純粋経験から日常の意識状態に戻って来て、各様の解釈が生まれてくる訳ですが、そこで得てして与ったことと、思考されたこととが混同されて語られることもあり勝ちのように思われます。
あの瞬間は確かにそう感じられたものでも、それで真理が分かったと今考えられているとか...
というよりも、ワンサカ考えさせられるのがフツーというべきでしょう。フツー考えられないようなことが起きてしまったら...人間は考える動物なんですから...
現実生活とのギャップから、頭が混乱したり、人生、世界の裏側を何か見抜いた気になったりしたり...
そして、又私もそうだったように、消え去ってしまった(ように感じられる)あの瞬間を取り戻したい、という思いに駆られたりするのでしょう。"そういうのは自我の思いなんだ"、とか何とか...ああ、メンドクサi
これ、すべて思いの世界でしていることじゃありませんか?
しかし、あの瞬間はそれは超えられていた...自由だったのです!
考えている自分からじゃない、すべて与えられたものだったのですi...故に"与る"というのです。
"それはどこからもたらされたのか?" このことが蔑ろにされた時、与ることと、自分に帰してしまうこととの混同が生まれるのでしょう。
与えられたものは、こちらで操作したり、こちらに帰したり出来ないものです。
そこには、どうしても私を超えた、その本なる源泉というものがあるi
私の本に帰る、その原点というものは、そこに求めざるを得ません。
前記したあの瞬間の感覚というものは、そのものあってのことであるほど当たり前すぎることは無いのですi
体験そのもの、そのことを頭で理解したことには求められないのです。
とはいえ、知らずにその与ったものを思念で取り込んでしまうこともあるかもしれません。
だから...どこまでも意識を本なるものに向けてゆきたい...そうならざるを得ない...
常に呼び覚まされるものを感じているから...
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