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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

春の便り

2016-03-21 20:07:12 | 覚醒
”悟りとか覚醒ってのは、特別な事なの? あるエラそうな人は体験の無いヤツはダメだ!とか言っている。又あるニターッとした人は特別な事なんて無いんですよ~実はね、人は皆最初から悟っているんですよ~なんて言ってる、一体どっちが本当なの?”

この辺の観方の違いというのは、畢竟、目覚めをもたらすものが、我々の表面意識に伝わっているか、どうかということではないですか?
到達したり、獲得しなければならないというものではありません。
誰もが意識の深いところでは、大本の命とつながっている…それが表面意識を貫いて顕わになる事かとも言えると思います。
まあ、こういうことはスピ界では、よく語られていることなのでしょうけど…
私は日常の意識に伝わっていなくとも、サッパリ分からないという事は無い…その人なりに何がしかのことは知らさているだろう、と思っています。
私の場合はもう疑いようが無いです。あの体験以前から知らされていました。
キリスト教に触れていたという事もあり、確かにそれらが機縁になっていたのでしょうが、ただそうしたことを観念的に信じていただけで、リアルに心身に衝迫してくるものは感じなかったでしょう。
そして洪水のようにそのあるものが押し寄せて、防壁を決壊させるのは時間の問題だったと思います。
このあるものは、おそらく誰もが意識のどっかでは分かってるハズなんじゃないですか?
表面意識に対して、深層意識、潜在意識とか言いますが、それは硬い扉みたいなものでセパレートしているようなもんじゃないでしょう。
岩よりも鉄よりも硬いものは、その扉じゃなくて思いなんです。
ある人たちはとてもその覚醒などに預かることを熱望してます。
多分、それが如何に喜ばしきものであるかという事を本などで知っているのでしょう。
でも、元々そう感じさせる下地というものが自分に無ければ、共鳴も、熱望も生まれないものでしょう。
しかし、いつも言うように、その体験というものは個人の力でどうなるものでは無い…でも体験が有ろうが、無かろうが喜ばしき下地を感じられるという事が、どれだけ宿縁に恵まれていることか…と思います。体験そのものに捉われる事は薬物依存と隣り合わせのものです。
薬物に頼っている時は、歓喜に耽たれても、無ければ禁断地獄…
本当に魂が求めているものは既に有るものだし、無くなりません。
我々の意識の深層に通底しているものは、喜ばしきものと分かち難くあるという事なのです。
それはある節目に表に顕れる…いやそもそもが表に顕れるものなのだ…とも感じられます。
何故ならば、我々には表面意識と言われるものを背負っているから…
地下水は泉を通して地表に表れます。
地中に隠れている根は幹や枝となって実を結びます。
これは隠されているものは、表れる事になっているという仕組みのような事を言っています。
見えないものこそが真実で、見えるものは幻想という事は多分無いと思います。
本が有って末が有る、そのすべてが真実ということなのでしょう。
そして根というものには、出よう出ようというハタラキが有るものです。
その自然の発露に任せておけばいいのです。

春分も過ぎ、あちこちから春の便りが…。






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悟り=差取り

2016-03-01 12:52:03 | 覚醒
出版界を中心に精神世界ブームと言われ出して久しく、すっかり定着してしまった感もありますが、重要な事で未だにきちんと認識されてないことも結構あるように思います。
例えば、当たり前のように語られる”悟り”というもの…
私はこうした理由もあり、あまりこの言葉は使わないようにしてます。”覚醒”とか”一瞥”といった言葉には私もピンとくるものは有りますが、これらと悟りとは同じなのか、違うのか?
まあ、定義なぞどっちゃでもええ、といえばどっちゃでもええんですけど…
悟りといった場合、それは一時の”そうなっちゃった体験”なんてもんじゃなくて、それらより何ランクも上?の”ある境地に達しちゃった、俗人じゃなくなっちゃった”ことについて言われている気もします。
どちらにせよ、私は常々それらは一個人に帰せられるものじゃない、と言ってます。
ハッキリ言えることは、それらは個人の力でどうなるものじゃない、からです。
もっと根本的な事は…私は悟りの何たるかも分からないながらも、自分なりのイメージを借りて述べてみます。
”私は悟っているんです” ”私は最終解脱者…究極の境地に達しちゃったんです…”こういう事を臆面も無く言う人は限りなくクサイ人だということは学のある皆さんでしたらもうお分かりですよね。
じゃ、どういう人がホントに悟った人かというと…これはもう逆説的に言わないとなりません!
ホントに、ホントに”自分は悟ったとか特別な境地に居るんじゃなくて、悟っていないであろう衆生と何も変わらないんだ…”という事を心底、ごく自然に感じている人だと思います。(だから私は悟りとは程遠い…)
悟りとは”差取り”の事とは実に言い得た表現ですね。
悟後の修行というのは差取りに尽きるかと思います。
も一つ言えば、悟りとは”私”が”渡し”となることでしょうか…
私はただ垣間見せられた限りの理解から感じられることは、こうしたものの根底にあるのは普遍調和世界とのつながりではないか…という事です。
その心持というのは、どちらが上であるとか下であるとか、特別な何かだとかといった相対的な一切を超えた領域に安んじている、というところから来るのでしょう。
それは悟りというものにしばしば付けられる、”超越”といったイメージとは、一面違うように受け止められます。
逆説的に言えば、自分だけ超越境を目指すような目論見は、普遍調和とのつながりを絶ってしまう事ともなるかも知れないのです。
でも、別の一面では、”つながり”というのは、それ自体超越された世界でもある…
何のこっちゃ分からないでしょうけど、それは正しく普遍調和ならぬこの世を取り巻くありとあらゆる、しがらみ、縛り…といった業的領域からの全き自由、超越に違いないのです。
この人類的宿業というものこそは、私は普遍調和の裏表にあるものという気がしてます。
もっとも、それは裏表などという生易しいものじゃなく、天国と地獄のような究極的対極性のようではあります。
どうして我々はこんな宿業を背負わされて生きなければならないのか…
それは、個人でどうなるものじゃないです。悟りの契機と同じく…
個人が悟るんじゃない…”個人が有るから問題なのだ”と言って無くす必要もありません。
ただ個を超えたものに委ねるしかありません。
”悟りだ、目覚めだ…”って、もうそれしかない…
このバカバカしい現実世界にあっては…
自分じゃない、人類的なものの悟りともいうべきものを想起する他ありません。







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ただの人の目覚め

2015-12-11 16:37:24 | 覚醒
”人間は修行して、一歩一歩レベルを上げて、霊的進化して行けばやがて悟り、神人合一の境地に至れる…”

私が精神的な事に関心を抱き始めた当初は、このような先入観を持っていて信じて疑わなかったものです。
いや、それはほとんどの求道者とて同じだったのではないでしょうか?
そしてその界隈では、”苦節ン十年、ついに私は神サマのレベルに達しました…”と言う自称覚者がいっぱい存在していたようです。教師を名乗る人というのは大体がそういう人たちだったと思います。
我々凡人としては、”ほうそりゃあスゴイや…我々のとうてい及ばない超人だわ…”と舞台上のアイドルを見るように見上げてることしか出来なかったのです。
そして中には、”ヨーシ、それじゃあオレだって…”と”ウン、ウン、”と何処に導かれるのか知らないけど、自分で修行に励む人も現れ出たりしました。
現在からこれを思う時隔世の感がしてきます。なんだかんだと言っても”悟りなんて特別な事じゃないんですよ~”と謙虚な人徳者?も増えました。
今は、特別な信仰も修行もなくとも、普通の人が目覚めに預かってしまう時代なのです。
このことを特徴付けているものの一つとして恩寵としか言いようのない、我々の知覚、能力を超えたある種のハタラキが存在すること、などが挙げられるかと思います。
この事だけをとっても悟りとか覚醒(これが同じものなのか、違うものかはさておき)というものは、その個人のなにが、かにが優れているとか、能力といったものとは関係が無いという事が理解されるでしょう? この世に生きている限り、どこまでいってもただの人間はただの人間に過ぎないのです。ただその見た目の土台にはただでない、とてつもないものが息づいている…これが顕わになって来ているのが何かが変容するように感じさせているのでしょう。
この目覚めというものは、元来がそういう質のものなので、(これはちょっと言い表すのに微妙な事なのですが…)アリアリと直接的に実感するものでありながら、”全くもってこれは自分の事じゃない、自分の手のかからないところで起きている…”という相反するような実感も又有るものなのです。
おまけにその契機は大概はまず強烈な体験として訪れるのが普通なので、それが去ったら消えたように感じるのも常だと思います。
するとその嵐が過ぎ去るとこんな思いが過ってきます。
”あれは本当に目覚めたのかなあ…”と。ここに所謂覚醒者の分かれ道が存しているようです。
中には”本当の目覚め?”の印可のもののようなものを求め出す人も居ることでしょう。しかしそれは元来我々の有識を超えた領域で起きていることを有識に取り込もうというような試みです。人生の裏側のことを表側に置き換えようとすることです。
形なきものに形をもたらそう、捉えられないものを捉えよう…これがまさに現世の”この手にずっと握りめていなければ安心できない”人間的な処世の流儀に他なりません。
して結果は…その本来性は失うに至ります。これ正しく”これを取ろうとしたらこれを失い、手放せばこれを得る”という裏の流儀からズレてしまうのです。そしてとても覚者とは思えないような言動に走り出す人も見受けられますね。
まるで常に正しい覚者像を演じようとして隠れたオカシサまで顕わになってしまうようです。
日常を生きている自分が、所謂真我というか本来の自分そのものであると錯覚したりして、この二つのつなぎが上手く行かなくなるのです。
いや、そもそもそれをつなげようとする必要も無いものだと思います。やろうとしたって有識的な人間にできる事じゃないです。
限りある自分が悟りだとか目覚めだとかについて出しゃばる必要は無いのです。
必要な時には神人自らがただの人を通して語るでしょう。
最初から”つないでいるもの”個的な私と一なるもの、神的なものと人間的なものを結び合わせるもの”神人的なもの”に任せておけばいいのです。
恩寵もこのものによりもたらされ、事後の導きもこのものによるのです。
いつもこのものと共にあれば…寝ても覚めてもいいのです…。





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真正の覚醒?

2015-11-12 14:21:12 | 覚醒
クエーカーの集会で忘れられない想い出は、十年くらい前相次いで二人の覚醒経験者と出会った事でした。
この二人は私の見たところ真正?の覚醒をしていると言っていいと思います…。
こう書くと、”真正の覚醒ってなんじゃい、お前に分かるんかい!”という文句が聞こえてきそうです。
分からないですよ!…勿論私は悟ってませんし、見性の認可など与えることなどトンデモナイ話ですから…
これは私自身がその出会いを通じて、心から共感することが出来た…本当に、真正に共感したといった意味です。
あくまで私が見た、感じた…ということであり、真に正しいかどうかは分かりません。
この共感というのは、どうしたって私自身が経験したことを基にしてのものとならざるを得ません。
その意味でこの観方は主観の域を出ないのは言うまでもありません。
それぞれたった一回だけの、わずかの時間の触れあいのみでの感想に過ぎないのですけど…
二人はいずれもクエーカーに初めてやって来た訳ですが、ある意味ではもっともクエーカー的な存在と言えます。
何しろ直接経験というものに預かっているのですから…
しかし彼らは私の知る限りその一回しかやって来なかったようです。
彼らは(実際にそういう言葉が聞かれましたが)集会にその言葉を超えたメッセージを携えて分かち合いを持とうとして参会したのだと思います。
最初に会った人などは、礼拝中、所謂感話(魂が揺すぶられて、促しを受けると発するというメッセージ)をしていたのですが、確か”信仰的共同体を有機的に生きたものにするのは聖霊の働きが不可欠である!”というような内容だったかと思いましたが、これなど全くもってクエーカーの感話にふさわしい…”初めて来たんですって?…まさかあ…”と感服してしまうくらいでした。
ところが折角そうしたメッセージがもたらされても、それについて分かち合うとか掘り下げるといった機会など与えられずじまいです。
諸々のプログラムなどで忙しそうなのです…。
このように書くといかにも今のクエーカーを非難しているように聞こえるかも知れませんが、霊性というものが後退した、集まる人たちの意識がそっちに向けられない集会というものはそういうものだとしか言いようがありません。
そして奇しき経験に預かった人というのは何時だって、周囲から無理解、誤解にあって孤独を味合わなければならないという事です。
私はしかしこのような奇しき出会いの契機に接したならば、努めて目敏く対応します。
共に昼食をとりながら、この方(アゴヒゲなど蓄えていて、どこか手島先生を彷彿とさせるところがありました)からその確信的経験について聞きました。
それによるとキリストに直接出会ったのだと言います。姿を見た、声が聞こえたという事で無しに、直にアリアリとキリストに出会ったんだと…”エッ、…見た訳じゃないのにどうして分かったんだろ?” …でも私には何となく言外に伝わってくるものが感じられました。
誰が何と言おうとこの人には、キリストこそが真正の導師ということなんでしょう…。
もう一人の方は見た感じ控えめの人でしたが、私は自己紹介されている時、そういう話は無かったと思いましたが、直観的にこの人は確信的経験に触れているに違いないと感じ、やはり昼飯を共にしながら交流を持ちました。して、やはりそうであった…
驚いたことに、その魂が揺さぶられて号泣していた時間が実に二時間にも及んだというのです! (私などよく命が有ったものだなあ…と思ったものです)
そしてなにか真我のメッセージを受けるようになったとのことですが、それもやはり耳に聞こえるようなものでなく、直接的なものだったということです。先の方ともどもこの直接性というのは、五感を介することなく意識に直接伝わるという事に他なりません。
これがどうにもこの世的理解を超えているので、言葉に言い表せず伝えるのにもどかしい思いをするのです。
でも私はすぐ理解出来ちゃいました。もう身にジンジン感応してきますから…
共感できる云々というのはこういう事です。
私は別のところでも覚醒に預かっていると思しき人と会っていますが、どうも知情意のバランスがくずれてそうだったり、いかにも体験ボコリだったり、どこか狂信的だったり…共感出来ない場合もあるのです。
その度に”体験すりゃいいってもんじゃない…”と思わせられます。
この二人についてはもっと詳しく交流出来なかったのが惜しいと思いますが、これも巡礼の旅での一コマだったのでしょうか…
僅かながらも一隅にパラダイスが開かれたような得難い思い出です…。








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自称覚者、自称覚醒者

2015-08-19 13:57:24 | 覚醒
ネットを見ていて最近少し気になった事が有ります。揶揄するような言い方で”自称覚者さん”という言葉が頻繁に見受けられます。
如何にも覚者然といったもの言いをする人は多いですが、その話題として取り上げられる覚者さんて、本当に自分でそう言っているんでしょうか?
私は詳しく読んでる訳では無いのでよく分かりませんが…
彼らはそう思ってるのかも分かりませんが(このような内心の誘惑というものは誰にもあるでしょう)、実際そう発信してる人が居たらかなりアヤシイ人であるのは間違いありません。
私は最終解脱者とか救世主だとか…一寸笑えない芸人みたいです。
ただ自分をパフォーマーとして割り切って覚者を演じている人が居たら、それはある意味でスゴイ人だと思います。
出口王仁三郎さんなんかはそういうところが有りました。
そうですね。覚者に見えます。ありのままを生きてる自分=覚者という思い込みから自由でいられるから…
このように他人が見て覚者のように感じられる人は確かに居ると思います。
そう言う人はまず自分で”そうだ”とは言いません。
覚者とは”They Say…”他称に限るものだと思います…。

一方、とても紛らわしい表現で”自称覚醒者”というのがあります。
果たしてこの覚醒者という呼び名が相応しいものなのか?…
一瞥体験とか覚醒に預かった事を発信している人たちのことなのでしょうけど(私もその端くれ)、言うまでも無くその人=覚者ではありません。
どうでもいいことかも知れませんが、”覚醒経験者”と言ったほうがピンときます。ヘンな誤解を与えずに済むし…
その体験というものがどういう種類のものかは別として、全くもって自分自身のことを伝えているのです。
これを自称云々というのは全く見当はずれです。
彼らは覚者でないので、当然人間臭い諸々の弱さも持っています(言っていることは夢みたいですが…)。
道を踏みはずすことだってあるでしょう。
ある人は何かと話題の大御所さんの一瞥体験を”魔境”と決めつけていました。
きっとそのように言える人というのは覚者なんだと思います。
でも、覚者が何を言おうと、生神様が言おうと所詮アカの他人のジャッジに過ぎません。
その中で何を感じ、何を悟った(深い意味とは限らない)かは本人じゃないと絶対分かりません。
分かるのでしたら本人の代わりに生きてみたらいいです。
だが先述したように生身の人間は、時にただ自分がその受けたいわく言い難い体験に、様々な人間臭い色、尾ひれをくっつけ、思い思いの解釈を施し、外部に流してしまうこともやりかねません。
又この世的に有名になったり、成功の甘い汁に酔いしれると自分の本当の依って立つところを見失ってしまいます。(これは別にAさんにかこつけてる訳じゃありません)
これがそもそもの魔境への変質のプロセスだと思います。(魔とはまさに他に向けられたときに”間”が差す…)
だから現在の自称覚醒者?が言うことと、彼らがどっかで語っているであろう、言葉で言い表せない体験の記述とは区別される必要があると思います。
もし、私が自分の先入観などの色眼鏡で、そのような記述に接してみて、何か黒いベールのようなもので覆われているように感じたら、悲しいかなおそらく私の眼がそうなっているのでしょう。
自称覚者も、自称覚醒者も幻想に過ぎません。
人それぞれの真実の無条件の愛の発露…多くの人はそれを裏切るかも知れない…
私は人を何人も裏切ってきました。だが、それだけは裏切りたくありません…。









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