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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

禅は本来に帰る

2025-03-17 06:27:46 | 祈りと瞑想
関西を拠点として、そのユニークな禅の会を中心に、草の根のような地道な活動をされている教師(本業は、本当の学校教師)で立花大敬という方が居られます。
私は平成八年頃、その「禅」「悟」などの著書(潮文社)を読んで、多いに共感を覚えたのでした。(「本心庵」というところから「しあわせ通信」各集、その他の著書が出ています)
“ユニークな“というのは、私なりのひねった言い方なのですが、それは曹洞や臨済などの宗門に囚われない、形に囚われない禅のようなのです。
その語る内容も禅仏教に囚われず、神道、キリスト教、最近の新しいスピ系のものなどそれに即したように型に囚われていません。(どうして私が共感を覚えたか、ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりでしょう?)
五井先生にも影響を受けたようで、そのためか語り口は、実に平易であり、とにかく肩が凝りません。ちょっと禅堂で接するようなものとは大分イメージが違うものを感じます。
私はそういうものこそが本来の禅なのではないかと感じてなりません。
ブッダの禅には勿論宗門など無かったのです。
禅と瞑想とはどう違うのかなどとヤボなことを言ってはいけない!...禅、“ディヤーナ“とは単純に瞑想のことなんだ!
それは、立花先生が強調するように、“ひとついのち“につながる道ではないか?
宗門どころか、宗派も超えてしまうのはごく自然、必然なことではないか?(この点、禅については全く素人の私がエラそうに言うのでなく、曹洞宗や臨済宗の門もちゃんと通られている、立花先生だからその話に説得力があります)
しかし、形、型が無ければいいっていうものでもありません。玉城康四郎先生的に言えば、形無き命、ダンマを受け、通られるから形を超えてしまうのでしょう。この命は当然、“ひとついのち“のものでしょう。
私は、ブッダが菩提樹のもとで只管禅定に入っていたというものこそは、そういう質のものだと感じてなりません。
ブッダは、その禅定により悟りに達したと言われていますが、既に全心身にダンマが通られていた。そうなるともうそれに打ち任せざるを得なくなります。
禅定というやり方が最初からあるのでは無く、心身脱落して自ずから坐ったままの状態にならざるを得なくなったのでしょう。
道元禅師の「只管打坐」とはこの消息のことを言っているのではないでしょうか?
それは自分の意志努力で坐るので無く、形無き、ひとついのちに裏打ちされるものでしょう。(この点で大まかに二別される、曹洞禅、臨済禅では、私はどちらかというと前者の方に傾いてしまいます。何しろ本来禅には公案も見性の印可も無かったのですから!)
繰り返しますが、本来の禅には宗門、宗派を超えているのです。
立花先生の逆説的ユニークな禅理解に、その本来性へと回帰してゆく、見えない法~ダンマの流れ、息吹が感じられます。



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祈りは神との呼応

2025-03-14 06:14:52 | 祈りと瞑想
祈りというものは、一般にはこちらが神を対象にして、何か願い事をするだけのように思われているようです。
そして願いが叶えられ無ければ、神も仏も無いと思ってしまうのでしょう?
それは正に神も祈りもただそのように、観念的に思い描いているだけにすぎません。
それは、実に思いを超えた神により、その超えた次元に突破させられ、内なる自己が開かれ、神と一つに、確実に、容易に安心立命へと導かれる道であるにも関わらず...
祈りは断じて、こちら側から神へとハタラキかけることに止まるものではありません。それはただの入り口にすぎないのです。
純一に神を求め、祈り続けるのなら、必ず神からのハタラキかけがあることを感じずにおれなくなくなります。
具体的に言えば、いつの間にか、何か自分の思いを超えて、加持されるというか、上からそう、降りて来て迫り、中から押し出されりように祈るというより、祈らされるように感じられて来ることです。
祈りは実にこのような自己と神との呼応なのです。呼べば必ず応えたもう...この応答こそが神の現臨に他なりません。神は思い描き、信じるというだけのものでなく、実に生きてこちらに臨みたもうのであった!...それにより神と自己は、本来一つのものであることに覚めさせられるのです。
純一に神を求めるとは、例えば、興味本位に神の実体についてや、霊界や前世のことなどへの空想ごとに外れたりしないことです。
神をモノのように捉えて、神を超えないと悟りに至らないと思っているような者には、決して悟りの道など開かれることは無いということです。神無しには、ずっとそういう観念に囚われ続け、思いが超えられることは無いのだから!
かかる者がどんなに祈りについて語ろうとも、“敬虔であること“について全く分かっていないと言わざるを得ません。
この敬虔さこそが“純一に“、ということなのですが、それはそうせねばならないという倫理的なことではありません。
神、霊なるものにものに意識が向かい、それを現前にすれば、自ずとそうならざるを得なくあるということなのです。それが神からの応答を受けることに他なりません。
そして、神に祈っても願いが叶えられないなんて言うのは、とんでもない話ではありませんか?!
愛、平安、リアリティという恩恵を受けているではないか!
あの願い、この願いがあったとして、それが感じられなければ一体何になるでしょうか?

ああ...神はどういう存在なのかは知らないけれど...私は“敬虔であること“がどういうことかを知りました。
神はどういうものかはもはやどうでもいい!...もうたまらない!、あなたの迫りを受けて!
もう、感謝しかありません。
私は知らずに神の応答を受けていたのです!...
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生活と一枚の祈りと瞑想

2025-02-26 04:20:02 | 祈りと瞑想
私は常々祈りと瞑想は分けることは出来ない、ということを言っています。
あくまで私が理解している限りでの祈り、瞑想のことなのですが...
瞑想というと、一般には一定の座り方や呼吸法やあるイメージを思い浮かべたり、チャクラに精神を集中したりなどの行法を伴うものという風に理解されているようです。
そのように、自力的な意志努力に依らなければならないのだ、と。
こういうものが瞑想なら、マントラを称えるやり方などはともかく、別段祈りとつながるということも無いでしょう。
しかし、私は一度もそういう瞑想に依って、瞑想の深まった境地とされるサマーディ(三昧)と言われる意識状態に導かれたことは無いのです。
ましてや、神的なものが臨んで来る、臨在感に与ることなどとてもありそうにないように感じてしまいます。(ちなみに、このサマーディと現臨感とは通じるものがあります)
というよりも、そもそもが意識がそういう自力的な瞑想行には向いて行きません。現実には“やれ“、と言われても困難なのです。(無理してやったら先の幸福なことに与れなくなるのは必定でしょう)
だから、自然と意識が向いてしまうようなことに導かれてしまうのです。
勿論、取っ掛かりとしてそのように意志するということはあるのですが、すぐに自然と神的なものの臨在を覚え始めるのです。(現実にそうなってみて感じるには、やっぱりこれもある種のサマーディではないかと思うんですけども...)
これが思いを超えたものに依り、それから離れられる、超えられる状態と言ってもいいのです。
そしてこれが、先の分けることの出来ない祈りと瞑想のすべてなのです。
それだけか?...と思う人は、思いを超えた意識領域とつながることが、どういうことかが分かっていないのです。
私はこのように普通の瞑想行とはほとんど縁が無いので、こんなこと言うのもオカシイようですが、瞑想ではサマーディの境地を目指したりするのでしょう?
しかし、思い、為そうとする自分から思いを超えた境地を目指すというのも、オカシイことですね?
別にそういう境地を目指している訳でもなく、自然とそうなってしまうのですけど...
これは、やっぱりその超えたものを頂いている...だから祈りと分けることは出来ないのです。
分けられないですね、これは!...
寝て、起きた時などは特に分けられないものを感じてなりません。
意識的になろうとしなくても、現臨の、サマーディの状態になっていることが多々あります。
そう、それは生活と分けられなくなってしまったようなのです!
自分の本来的な在り方は、生活と一枚にならざるを得ないということなのでしょう!...
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主一無適

2025-02-19 06:55:42 | 祈りと瞑想
祈る、瞑想してみる...
自分を超えた神、あるいは内なるものに意識を向ける...
否、そう意志想念で向けようとしなくても、自ずと向いてしまう...
自ずとある中心へと意識が集められる...
自ずと意識が統一、帰一されてゆく...

このようにごく単純に祈り、瞑想に向かう意識状態は、一つ、一なるものとならざるを得ないものです。
純粋な、何も付け足さない祈り、瞑想であるならば!...
ただ自分の思い、力を超えたもの、あるいは一コの考える自分に元々内在している、本来の自己、真我につながるだけの祈り、瞑想...実にそれだけのものがそのすべてのものということが分かるでしょう。
然るに、世の中で祈り、瞑想と称しているものの多くには、何故諸々の雑多なものをそれに付け加えるものが存在しているのでしょうか?
ことに瞑想に関して、足をどう組む、どう印を組むか、呼吸は何回行うか、何の神、どの神をイメージするのか、神名のマントラを何回称えるのか、どのチャクラに精神を集中するのか?
どの神、何段階かありそうな内のどの自分に心を集中するのか...
こんなややこしくては、意識の統一、帰一は困難になるだけで、むしろ分裂するだけではありませんか?
それに、神には善神、悪神が居る、神を超えた境地を目指さなければならない、というような意識がここに落ち着くこと無く、あちこちに浮遊してゆくような、面妖な教説がそれに拍車をかけてゆく...
いや全く、ナンセンスなことではありませんか?
瞑想したばかりに偏向、分裂した、精神的にも肉体的にもバランスを欠いた、“ヘンな人間“になってしまうのですよ!
祈りに関して、神社でも寺でも、主神、本尊というものが祀られているものです。摂社や末社はともかく、本社には一つの主神が祀られているのです。
二神では無く一神です。二神では二心になるだけですよ。
祈るということも瞑想と同じことで意識が一つになることです。
統一...これは、先の通り自分の思いで、二つのものを一つに統一するのでは無くて、二つのものが自ずと一つになるようなことです。神が統(す)べる、すべてのものと言えるでしょう。
神を意識すればそうならざるを得ない...内在する自己、真我(主人公)でも同じことであるのは言うまでもありません。
神は一つ、主は一つ、自己実存は一つ...だから、祈り、瞑想は“主一無適“でなければならないのです。
何年、何十年祈りや瞑想していても一向に進展が見られないのは、それに純一、主一にならないことにその要因があるのではありませんか?
自分の思いを超えたもの、内在しているものを頂き、ゆだねる...自然に思いは超えられ、本心が開かれるように導かれるのではないでしょうか?
それを自ら進んで、雑多な、統一、帰一に導かれないものに、心を許してしまう向きなどは何をか言わんやではありませんか?!...




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わが主に凝縮されるもの

2025-01-28 04:25:23 | 祈りと瞑想
朝目覚めた時など、よく自然と祈りとも瞑想ともつかないようなことに導かれるのですが、それには僅かに意識が向く、向けられるということがあるだけで、通常祈りとして理解されている形というものはありません。
従って、キリスト教のイエス.キリストとか、浄土系仏教の阿弥陀如来といった特別な帰依対象というものも無いのです。
それでも強いてそれを表すとしたら、(それだけだと何を書いているのか分からないだろうから、読み手を意識して)“わが主“ということになるでしょう?
“そうか、キリスト者なんじゃん?“、って思われるかもしれませんが、それはそっちでは、“主キリスト“という呼び名が慣用化されているだけなのであって、どの宗教でも“わが主なるもの“の響きというものは頂いているのではないでしょうか?
何度か言っているように、それは一コの私を超えた、見えない領域を含めたすべての私のことをその一語で言い表しているのです。
これは、ちょっと前にも書いたように、私にはわが主キリストという呼び名でも、自分を超えたものであると同時に本当の自分自身でもあるという、そういう響きは感じられて来ます。
又、仏教のブッダとは、阿弥陀仏のような帰依対象にとどまらず、内在のブッダ、“仏性“という意義も含まれているものであり、これもわが主の内実を伝えるものと言えるでしょう。
つまり、キリスト(性)、ブッダ(性)というものは、意識の在り方次第(観念的に信じるだけで無く)では、それ自体が超越的な神的なものと、内在的な真我的なものを一つに、直接的に自己に開かれるものなのです。勿論、こういう例は他にも多数あることでしょう。(私の場合、朝の目覚めの時など、そういうことが身に覚えられているので、特定の名を用いる必要が無い、ということなのです)
この点、イスラムではどうなのか?...預言者ムハマッドというイエス、ブッダと並び称される聖者は、“わが主ムハマッド“という風に先の、神と真我が一つになるように、祈り、瞑想の場で呼び慣らされている例はあまり聞きません。
預言者ムハマッドは、唯一神アッラーを取り次ぐ存在であり、そこで神との関係は二段になってしまいます。又、前回にも書いたように、唯一全能の神というのは、抽象的で捉えどころが無く、直接自己実存につながって来ません。
もっとも、これはあくまで概念的な説明をしたまでで、あらゆる霊性の道、神秘道においては、そういう言葉を超えて、イスラムでしたらムハマッドに、アッラーに“わが主“が重ねられるという例もきっとあることでしょう。
このように、“わが主“という一語には、一元も二元も超えた、あらゆる霊性の道が凝縮されていると言っても過言ではないのです。
それが祈りに結びつけば、神との人格的関わりと言われるような性質のものに導かれるのが自然でしょう。
しかしそれは、字義通りの意味を超えて、他人事でない、神と自己との直なる関わりとなることを言い表しているのは言うまでもありません。
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