関西を拠点として、そのユニークな禅の会を中心に、草の根のような地道な活動をされている教師(本業は、本当の学校教師)で立花大敬という方が居られます。
私は平成八年頃、その「禅」「悟」などの著書(潮文社)を読んで、多いに共感を覚えたのでした。(「本心庵」というところから「しあわせ通信」各集、その他の著書が出ています)
“ユニークな“というのは、私なりのひねった言い方なのですが、それは曹洞や臨済などの宗門に囚われない、形に囚われない禅のようなのです。
その語る内容も禅仏教に囚われず、神道、キリスト教、最近の新しいスピ系のものなどそれに即したように型に囚われていません。(どうして私が共感を覚えたか、ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりでしょう?)
五井先生にも影響を受けたようで、そのためか語り口は、実に平易であり、とにかく肩が凝りません。ちょっと禅堂で接するようなものとは大分イメージが違うものを感じます。
私はそういうものこそが本来の禅なのではないかと感じてなりません。
ブッダの禅には勿論宗門など無かったのです。
禅と瞑想とはどう違うのかなどとヤボなことを言ってはいけない!...禅、“ディヤーナ“とは単純に瞑想のことなんだ!
それは、立花先生が強調するように、“ひとついのち“につながる道ではないか?
宗門どころか、宗派も超えてしまうのはごく自然、必然なことではないか?(この点、禅については全く素人の私がエラそうに言うのでなく、曹洞宗や臨済宗の門もちゃんと通られている、立花先生だからその話に説得力があります)
しかし、形、型が無ければいいっていうものでもありません。玉城康四郎先生的に言えば、形無き命、ダンマを受け、通られるから形を超えてしまうのでしょう。この命は当然、“ひとついのち“のものでしょう。
私は、ブッダが菩提樹のもとで只管禅定に入っていたというものこそは、そういう質のものだと感じてなりません。
ブッダは、その禅定により悟りに達したと言われていますが、既に全心身にダンマが通られていた。そうなるともうそれに打ち任せざるを得なくなります。
禅定というやり方が最初からあるのでは無く、心身脱落して自ずから坐ったままの状態にならざるを得なくなったのでしょう。
道元禅師の「只管打坐」とはこの消息のことを言っているのではないでしょうか?
それは自分の意志努力で坐るので無く、形無き、ひとついのちに裏打ちされるものでしょう。(この点で大まかに二別される、曹洞禅、臨済禅では、私はどちらかというと前者の方に傾いてしまいます。何しろ本来禅には公案も見性の印可も無かったのですから!)
繰り返しますが、本来の禅には宗門、宗派を超えているのです。
立花先生の逆説的ユニークな禅理解に、その本来性へと回帰してゆく、見えない法~ダンマの流れ、息吹が感じられます。
私は平成八年頃、その「禅」「悟」などの著書(潮文社)を読んで、多いに共感を覚えたのでした。(「本心庵」というところから「しあわせ通信」各集、その他の著書が出ています)
“ユニークな“というのは、私なりのひねった言い方なのですが、それは曹洞や臨済などの宗門に囚われない、形に囚われない禅のようなのです。
その語る内容も禅仏教に囚われず、神道、キリスト教、最近の新しいスピ系のものなどそれに即したように型に囚われていません。(どうして私が共感を覚えたか、ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりでしょう?)
五井先生にも影響を受けたようで、そのためか語り口は、実に平易であり、とにかく肩が凝りません。ちょっと禅堂で接するようなものとは大分イメージが違うものを感じます。
私はそういうものこそが本来の禅なのではないかと感じてなりません。
ブッダの禅には勿論宗門など無かったのです。
禅と瞑想とはどう違うのかなどとヤボなことを言ってはいけない!...禅、“ディヤーナ“とは単純に瞑想のことなんだ!
それは、立花先生が強調するように、“ひとついのち“につながる道ではないか?
宗門どころか、宗派も超えてしまうのはごく自然、必然なことではないか?(この点、禅については全く素人の私がエラそうに言うのでなく、曹洞宗や臨済宗の門もちゃんと通られている、立花先生だからその話に説得力があります)
しかし、形、型が無ければいいっていうものでもありません。玉城康四郎先生的に言えば、形無き命、ダンマを受け、通られるから形を超えてしまうのでしょう。この命は当然、“ひとついのち“のものでしょう。
私は、ブッダが菩提樹のもとで只管禅定に入っていたというものこそは、そういう質のものだと感じてなりません。
ブッダは、その禅定により悟りに達したと言われていますが、既に全心身にダンマが通られていた。そうなるともうそれに打ち任せざるを得なくなります。
禅定というやり方が最初からあるのでは無く、心身脱落して自ずから坐ったままの状態にならざるを得なくなったのでしょう。
道元禅師の「只管打坐」とはこの消息のことを言っているのではないでしょうか?
それは自分の意志努力で坐るので無く、形無き、ひとついのちに裏打ちされるものでしょう。(この点で大まかに二別される、曹洞禅、臨済禅では、私はどちらかというと前者の方に傾いてしまいます。何しろ本来禅には公案も見性の印可も無かったのですから!)
繰り返しますが、本来の禅には宗門、宗派を超えているのです。
立花先生の逆説的ユニークな禅理解に、その本来性へと回帰してゆく、見えない法~ダンマの流れ、息吹が感じられます。