太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ディズニーランドがつらい理由

2020-12-22 10:48:32 | 日記
同僚が、東京のディズニーランドに行くのが夢だ、と言う。
子供の頃、アメリカのディズニーランドに行ったことがあり、
まさに夢の中にいるような、忘れられない楽しさだった。
東京のディズニーランドは、楽しさも美しさもアメリカに引けをとらない上に
1日でじゅうぶんまわることができるし、
なにより日本にある、というのが魅力なのだそうだ。

「東京ディズニーランドに行ったこと、ある?」

やっぱり聞くか。

「それが、行くチャンスがなくて行ってないんだよ」

ディズニーランド好きには、私はそう答えることにしている。


東京にディズニーランドができたとき、私は19歳で美大生だった。
私の周囲の美大の仲間たちには、ディズニーランドに興味がある人はいなかったし、
パン屋でもらってきたパンの耳にサラダ油をつけて食べているような、貧乏学生が多かったから、
興味があっても、行くお金がある人は少なかった。

数年後、地元に戻り、職場の友人たち4人で行ったのが、最初で最後のディズニーランドである。
仲間で遊んだのは楽しかったが、ディズニーランドは私はまったく楽しめなかった。
夢の世界に入り込めない私には、すべてが嘘くさく見えてしまい、
テンションの高さが苦痛だった。



ファンタジー映画は大好きなのに、ディズニーランドが苦痛になるのは、

子供の頃にディズニーランドがなかった

というのがひとつの理由ではあるまいか、と思う。
せめて中学高校時代にディズニーランドに行けたなら、また違ったかもしれないし、
子供がいたら、子供を連れて行くことによって、楽しさを発見することもあったかもしれない。


私がファンタジーの世界で浮いてしまうのは、
子供の頃にディズニーランドがなく、自分の子供を連れてゆく機会もなかったが故で、
けして心が薄汚れているからではないのである。
と、思いたい。


「東京ディズニーランド、いったいいつ行けるんだろう」

同僚が溜息をつく。
コロナウィルス以来、世界はグッと広く、遠くなってしまった。
面倒なことも、不安もなく、どこにでも行けたこと自体が、今は夢のように思える。








日本のトイレットペーパー 追記

2020-12-22 09:55:35 | 日記
日本のトイレットペーパーを買ったのが、8月半ば。(その記事はコチラ

これね。

日本製というだけで飛び付いて買ったので、
買ってからシングルだったことに気づいた。
それまで、シングルを使ったことがなかったから、シングルがどれだけ薄いかも知らなんだ。
使ってみたら、薄い薄い。
長めに出しても、まだ薄い気がする。
夫など、1日で使わなくなってしまい、私は買ってきた責任を取り、
一人で黙々とシングルを使うはめになった。

あれから、4か月と3日。

ようやくシングル6個を使い切った。
ほぼ毎日家にいて、一人で、6ロールを、4か月。
ロング170mのおかげなのか、そもそもシングルは長持ちなのか。


という、しょーもない話。










なんでも予約

2020-12-21 11:52:46 | 日記
いつも新年には、ホノルルの、小さな神社やお寺に初もうでに行く。
それが今度の正月は、どこも予約制だという。
日本の初もうで事情はどうなっているのだろう。
出雲大社の分社など、10分刻みで予約を受け付けている。
そこまでして初もうでに行くほど信心深くもないので、
今度の正月は、たぶんどこにも行かない。

今日、運転免許証の書き換えをしてきた。
書き換えは8年ごと。

私はこれが初めての書き換えだが、昔は予約などせずともできたはず。
今は前もってウェブサイトから予約をせねばならない。
それも、通常は誕生日の半年前から書き換えできるはずなのが、
パンデミックのせいで、オフィスが閉まったり、開いたり、
開いたと思っても緊急の人優先だったり。

私がようやく予約を入れられるようになったのは9月初めで、
その時点での1番早い空き枠が、12月21日だった。

誕生日まで残り10日しかないから、書類の不備があってはならないと
慎重に用意をした。
予約の15分前に行き、すんなり書類が通過して、
目の検査をして(左目がちょっと乱視ぽい)
写真を撮って、8年分の40ドルを払い、暫定的な免許証をもらって終わり。

写真を撮るとき、言われる。
「もっと笑って。まーだまだ。はい、歯を見せてー、アーローハー」
日本の証明写真とは、真逆。
夫のダイビングの免許証なんか、斜め上を見て大笑いしている。
ハワイのこういうところ、好きだなあ。

8年前に免許を取得したとき、さんざんテストに落ちまくったあとだったので
あまりに嬉しすぎて、職員も噴き出すほどの笑顔で撮れた。
今回も、目はシワが寄り、歯をむき出して笑っている。
8年後にこれを見た時、「若かったなあ」と思うんだろうか。








幸せなのはドッチ?

2020-12-21 11:25:34 | 日記
10年以上も前に聞いた話。

家族Aと、家族Bがいる。
家族Aは、35年ローンで買った中古マンションに住む、夫婦、小学生の子供二人、祖母の5人家族。
家族Bは、高級住宅地の1戸建てに住む、夫婦、娘一人の3人家族。

この二家族に、それぞれ5万円を自由に使っていいといって渡す。

家族Aは、連日、その使い道について家族会議をする。
子供はディズニーランドに行きたいと言い、祖母は温泉がいいと言う。
何日もかけて、ああじゃない、こうじゃないとワイワイ討論した末、
遊園地に行き、日帰り温泉に寄り、普段は行かないホテルの高級ブッフェでたらふく食事をして、
みんな大満足で帰ってきた。

家族Bは、「じゃ、いつものあそこでも行く?」と1秒で決まり、
高級レストランでワインと食事をした。

さて、どちらの家族が幸せでしょうか。











答えは、どちらも同じだけ幸せ。

裕福でなくても、家族の繋がりが強いAのほうが幸せ、
裕福でも、家族の繋がりが希薄な感じがするBはあまり幸せとはいえない、
20年前なら、私はそう答えただろう。

今はもう、そんな時代じゃない。
ハワイは今日、冬至を迎えた。
今年の春分も夏至も、竹の節目のように、その前と後では何かが変わってきた。
冬至もまた、大きな節目になったと思う。

昔は、価値があったもの。
昔は、当然と思っていたこと。
昔は、常識でしょ、と信じていたこと。

そこに戻ろうとすると、苦しくなる。
そういうところに、私たちみんなは、いる。

冬至の今日、私は紙に、私が無意識に信じていることを書き出してみた。
1枚の紙に、ぎっしり。
私はこれらをひっくり返すことができるんだろうか。


試しにひとつ。
「必死に働かないと生活していけない。普通、みんな嫌でも働いている」

これを
「べつにちゃんと働かなくても、生活していけるし、嫌なことはしなくたっていい」

にした瞬間、
「いやいや、じゃあどうやって支払いをするわけ?」
「自分の仕事が好きな人って、何パーセントいる?」
「嫌なことをやめて、好きなことだけやって、生活が成り立つ保証は?」
出るわ、出るわ、エゴの反論。
それもみんな、書き出す。
書いて、書いて、書く。

今日はこれをやって、過ごすつもり。
私は新しもの好きで、
私が体験したことのない、自由でおもしろい世界に行きたいと思うから。









外か内か。

2020-12-20 13:55:16 | 日記
私の実家は日蓮宗だが、私は無宗教だ。
この場合の無宗教とは、何も信じていない、ということではなく、
何か特定な宗教を信じているというわけではない、ということだ。
けれど、そこのところをコチラの人にわかってもらうのは難しい。

幼稚園はお寺さんで、中学高校はカトリック、最初の結婚式は神社で、葬式はお寺。
クリスマスパーティのあとで、神社に初もうでに行く日本人の、いいとこどり精神は誇りにすべきだと思う。
けれど、これもコチラの人には理解しにくいところだ。


だから、私は宗教に関しては自分からは何も言わないようにしているし、
その場その場で適当に話を合わせておく。
学生時代、宗教の授業があり、試験もあったので、聖書は一通り読んだ。
キリストは実在したと思うし、お釈迦さんは偉かったのだろうけど、
私にはただそれだけだ。


自分の宗教と違うものは許さない、という人たち。
近所のヘレンのように、時折店に顔を出したり、メールをくれるクリスティのように、
自分が心から良いと思っているものを、絶対に人にも知ってほしいという
純粋な気持ちで私を誘ってくれる人たち。
「ジーザスが好きで好きでたまらないの!」と言って憚らない同僚。

彼らを見ていると、ほんの少し羨ましいな、と思う。
そこまで揺るぎなく、何かを信じることができることが。



私にだって神はいる。

しかし、それはどこかの誰かではなく、それを象徴するものもない。
私の神は、この宇宙の源であり、私自身をたどってゆくとその中心にある。
だから、私の心の旅はひたすら自分の内側に向かってゆくことであり、
道しるべのないその道中は、不信と不安に揺れがちだ。


ヘレンが、「いいお話」が一杯入ってると言って、CDを何枚もくれた。
キリストに関心のない、気の毒な人(私)を救いたいのだ。
そのやさしさだけで、気の毒な私はもう救われてますヨ、と心でお礼を言い、
そっとCDを捨てる私は偽善者か。


夫は、生まれてすぐに洗礼を受けたクリスチャンだが、
15歳になったとき、
「教会に神がいるんじゃない、神は海や空や、どこにだっているんだ。ぼくはもう教会には行かない」
と宣言し、両親を驚かせた。
だからクリスマスも

「僕にはなんの意味もない」

と言って憚らない。
でも、頑固にクリスマスを祝わないというのでもなく、家族にプレゼントを用意したり、
家族の日として楽しむところは私と同じだ。


人生の岐路に立った15年前、いいタイミングで世の中はスピリチュアルブームで、
私はあらかじめ用意されていたドアを開けるように自然に入っていった。
親友がヒプノセラピーの学校に通い始めたのも同じ時期で、スピ友達も増えた。

自分ではどうにもできない世界に放り込まれたのではなく、
自分次第でどんなふうにも変えてゆけることに救われたし、
仲間とともに人生を切り開いてゆくのは、不安はあったけれど楽しかった。
「こんな話、10年前ならいきなり宗教だと思われて敬遠されたよね」
よくそんなことを言い合った。


私はもう、外に神を探すことはないけれども、
外側に神がいる人達の一途さは、やはり眩しく見えるのである。