毎日、不特定多数の人と会っていると、それぞれの人生の一部を
観客席から眺めているような気持ちになる。
フランスで生まれて、ミリタリーとして日本やアメリカの各地に住み、
リタイアしてハワイにいる人がいる。
今彼は週に3日だけ働いて、1日1冊の本を読む。
近々ラスベガスに旦那さんと行くのだという、日本人の女性がいる。
「私は行きたくないんだけどね、私をおいてゆくのはかわいそうだと思うんじゃない?
でも私はホテルで本を読んでいるだけ。主人が500ドルくれるんだけど、そんなのすぐに使っちゃうし、
つまんないじゃない。
日本に帰ると、100万円ぐらい使うしね、それを思えばラスベガスは安上がりだけどね」
同じ話を、来るたびにする。
仕事がなくて、とても苦しいと訴える人がいる。
記念日に奥さんに花も買ってやれなかったとこぼす。
今幸せな人も、幸せじゃないことだってあっただろうし、
今不幸だと思っている人も、ずっと不幸だったわけじゃないだろう。
幸せそうにみえる人が、幸せを感じているとも限らず、
不幸そうにみえる人が、それほど不幸だと感じていないかもしれない。
たくさんの人の人生の、切れ端にみえるものの一つ一つは、
いくつもの面をもった多面体になっていて
きっとそれぞれが、自分の見たいものを相手の中に見ている。
その証拠に、同じ人と接したときに、人によって感じることが違うことがあり、
私の身に起きたことを人に話したとき、私には思いもよらなかった見方をして、
目から鱗が落ちることがある。
私たちはみんな、自分以外の人を通して自分を知ってゆくというのは本当なのかも。
人に対して、居心地の悪い、不愉快な思いになったとき、
自然に沸いてくる感情を責めてもしかたがないにしても
「これが私の見たいものなんだろか?」
と自分に問うようになった。
あの人が、こうしてくれたら私は不愉快な思いをしないのに。
という場所にいつづけると、
私は私を平和にしてくれる人々を探して、永遠に放浪しなくてはならない。
このことに気づくまで、私はそうして生きてきた。
世の中で、変えられるのは自分だけ。
そして自分を変えられるのは、自分以外の人がいてくれてこそ。
私は今日も観客席で、人に映った自分を探しているのである。
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観客席から眺めているような気持ちになる。
フランスで生まれて、ミリタリーとして日本やアメリカの各地に住み、
リタイアしてハワイにいる人がいる。
今彼は週に3日だけ働いて、1日1冊の本を読む。
近々ラスベガスに旦那さんと行くのだという、日本人の女性がいる。
「私は行きたくないんだけどね、私をおいてゆくのはかわいそうだと思うんじゃない?
でも私はホテルで本を読んでいるだけ。主人が500ドルくれるんだけど、そんなのすぐに使っちゃうし、
つまんないじゃない。
日本に帰ると、100万円ぐらい使うしね、それを思えばラスベガスは安上がりだけどね」
同じ話を、来るたびにする。
仕事がなくて、とても苦しいと訴える人がいる。
記念日に奥さんに花も買ってやれなかったとこぼす。
今幸せな人も、幸せじゃないことだってあっただろうし、
今不幸だと思っている人も、ずっと不幸だったわけじゃないだろう。
幸せそうにみえる人が、幸せを感じているとも限らず、
不幸そうにみえる人が、それほど不幸だと感じていないかもしれない。
たくさんの人の人生の、切れ端にみえるものの一つ一つは、
いくつもの面をもった多面体になっていて
きっとそれぞれが、自分の見たいものを相手の中に見ている。
その証拠に、同じ人と接したときに、人によって感じることが違うことがあり、
私の身に起きたことを人に話したとき、私には思いもよらなかった見方をして、
目から鱗が落ちることがある。
私たちはみんな、自分以外の人を通して自分を知ってゆくというのは本当なのかも。
人に対して、居心地の悪い、不愉快な思いになったとき、
自然に沸いてくる感情を責めてもしかたがないにしても
「これが私の見たいものなんだろか?」
と自分に問うようになった。
あの人が、こうしてくれたら私は不愉快な思いをしないのに。
という場所にいつづけると、
私は私を平和にしてくれる人々を探して、永遠に放浪しなくてはならない。
このことに気づくまで、私はそうして生きてきた。
世の中で、変えられるのは自分だけ。
そして自分を変えられるのは、自分以外の人がいてくれてこそ。
私は今日も観客席で、人に映った自分を探しているのである。
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