私の故郷 篠崎純明
私の故郷は、千葉県の九十九里浜の豊海という所です。
四点ほど九十九里についてお話したいです。九十九里といっても実際の海岸線の長さは60Kmほどの砂浜です。隣町の白里は、百引く一という意味で同じ九十九里です。
昨日は、終戦記念日でしたが、終戦の年の7月、東京を空襲した、B-29が、日本軍の高射砲に被弾し、南方の米軍基地へ帰還できず、九十九里浜に墜落したことがありました。
まだ若い米軍兵士が、日本の憲兵に捕らえあれ、連れて行かれました。
まさに、日ごろ聞いていたとおり、兵士の髪は金髪、顔は真っ赤で赤鬼そのものでした。隣のおばあさんが竹槍をもってきて、息子の敵といって兵士の体を突いていました。
いくら、鬼でも竹槍でついてはいけないなあと、子供心に思いました。この時、始めてアメリカ人を見ました。
18年後、奇しくも、私は、アメリカの石油会社に就職しました。
上司は、口数の少ない、むっつりとした、スイス系の大男でした。彼は、十数年日本に在籍していましたが、帰国時、私に九十九里浜を良く知っている、自分は、Bomber-29の乗組員だったと告白しました。もしももっと早く話していたら、日本人に殺されるんじゃないかと本気で、思っていたようです。
2番目は、文化の色濃い九十九里です。
九十九里浜には、伊藤左千夫、智恵子抄の高村光太郎をはじめ、文人墨客が多く訪れているということです。私の祖父は、地引網をやっていました。海岸近くに網小屋があり、この小屋を改造して、徳富蘆花さんに、“別荘代わり”に貸していました。
“蘆花先生”(祖母はこう呼んでいました)は、時々、村人を集めて、源氏物語や徒然草についてお話をされていたようです。
私の祖母は、隣のおばあちゃんに、よく“おめえ、とぜんだっペー”といっていたことがありました。私には、その意味がよくわかりませんでした。
千葉の高校二年生のとき、始めて、徒然草を読み、おばあちゃんの得意気な“徒然”の意味を知り驚きました。
3番目は、家康のつくった、“お成り街道”についてです。家康の慎重さが窺えます。
家康は鷹狩のために、九十九里浜に向かって、船橋の辺りからから真っ直ぐな街道を造りましたが、これが、現在もある“御成り街道”です。所々に堀を廻らした陣屋がありますね。歴史学者によりますと、あの街道は、いざ、江戸が外的から攻められたとき、本拠地駿河への逃げ道として造ったものだそうです。江戸幕府初期の家康・秀忠の時代にはかなりの頻度で、“鷹狩”と称して戦時体制の訓練が行われたそうです。安定した家光以降には“鷹狩”の回数は減ったそうです。
最後は、九十九里浜から佐原、茨城方面での“平将門信仰”についてです。
成田山は、日本全国に有名ですが、私の故郷方面では、“成田山には詣でない”という人々がいます。私の家もそうでした。平安末期のヒーロー、将門の反抗に対して、京都の政府が、鎮圧にのりだし鎮護のために、不動尊を海路九十九里浜経由で成田山に祭ったとのことに反発しているのだそうです。以上が私の故郷、九十九里浜についてのお話です。
平成26年8月16日