親和会

地域自治会の親睦会の活動&トピックスなどなど~

お母さん

2017年05月01日 15時39分07秒 | サロン関連資料

    お母さん 

平成29年5月20日 親和会サロン

於畑自治会館

        1 お母さん 長崎        東井 義雄

        2 お母さんのお守り       鈴木 健二

        3 ぼくのむねの中にいるお母さん 一年浦島君

        4 ごめんなさいね お母さん   山田 康文

        5 お母さんから命のバトンタッチ 鎌田  実

        6 手紙 愛するあなたへ     藤田麻衣子

        7 おふくろさん         川内 康範

        8 手紙 親愛なる子供たちへ

        9 蟹工船の母          

        10 お母さんは「太陽」      境野 勝悟

        11 父の教え           窪田由佳子

        12 読後の感想

1 お母さん 長崎        東井 義雄 

雲もなく、からりと晴れたその日であった。
私たち兄弟は、家の二階で、ままごとをして遊んでいた。
お母さんは畠へなすをもぎに行った。出かけに、11時になったら、
ひちりんに火をおこしなさいよ、と言いつけて行った。
けれども、私たちは遊びが面白いので、時計が11時になったのに、
一人も腰を上げず、やっぱりままごとに夢中になっていた。
その時、ピカリと稲妻が走った。
あっと言うた時はもう家の下敷になって、身動き一つできなかった。
何とかして出ようとすればするほど苦しくなる。

じっと外の様子をうかがうより仕方がなかった。
二人の姉の姿が外に見えた。大喜びで「助けて、助けて」とわめいた。
姉たちは、すぐ走り寄って来て、私を助け出そうとした。
しかし土壁の木舞いの組んだのが間をさえぎっていて押しても引いてものけられなかった。
大きい姉が、「我慢しろ。ねえ、もうじきお母ちゃんも
お父ちゃんも帰ってくるけんね。姉ちゃんは誰か呼んでくるけんね」
励ましておいて、向こうへ走って行った。
私は、縦横に組んだ木舞いの隙間から、わずかばかり見えてる外を、
必死に見つめて、お母ちゃんが来るかお父ちゃんが来るかと待っていた。
やがて、大きい姉ちゃんが、水兵さんを四・五人連れて走って来た。
その人々の力で、私は助け出された。
フラフラよろめき、防空壕の方へ行こうとした。
家の下から、助けてえ助けてえと叫ぶ声が洩れてきた。弟の声であった。
大きい姉ちゃんが一番先に気付いて、沢山の瓦を取りのけて、弟を引き出した。
その時、また向こうのほうで、小さな子の泣き声が洩れてきた。
それは二つになる妹が、家の下敷になっているのであった。
急いで行ってみると、妹は大きな梁に足を挟まれて、泣き狂っている。
四・五人の水兵さんが、みんな力を合せて、それを取りのけようとしたが、
梁は四本つづきの大きなもので、びくともしない。
挟まれている足が痛いので妹が両手をばたつかせて泣きもがいている。
水兵さんたちは、もうこれはダメだと言い出した。
よその人が水兵さんたちの加勢を頼みに来たので、
水兵さんたちは向こうへ走って行ってしまった。
お母さんは、何をまごまごしてるんだろう、
早く早く帰って下さい。妹の足がちぎれてしまうのに。
私はすっかり困ってしまい、ただ背伸びして、あたりを見まわしているばっかりだった。
その時、向こうから矢のように走って来る人が目についた。
頭の髪の毛が乱れている。女の人だ。裸らしい。むらさきの体。
大きな声を掛けて、私たちに呼びかけた。ああ、それがお母さんでした。
「お母ちゃん」私たちも大声で呼んだ。
あちこちで火の手があがり始めた。隣りのおじさんがどこからか現われて、
妹の足を挟んでいる梁を取りのけようと、うんうん力んでみたけど、梁はやっぱり動かない。
おじさんはがっかりしたように大きい溜息をついて
「あきらめんばしかたのなか」いかにも申し訳なさそうに言って、
おじぎをしてから向こうへ行ってしまった。
火がすぐ近くで燃えあがった。お母さんの顔が真青に変わった。
お母さんは小さい妹を見下している。妹の小さい目が下から見上げている。
お母さんは、ずっと目を動かして、梁の重なり方をみまわした。
やがて、わずかな隙間に身を入れ、一ヶ所を右肩にあて、
下くちびるをうんとかみしめると、うううーと全身に力を込めた。
パリパリと音がして、梁が浮きあがった。
妹の足がはずれた。大きい姉さんが妹をすぐ引き出した。
お母さんも飛びあがって来た。そして、妹を胸にかたく抱き締めた。
しばらくしてから思い出したように私たちは、大声をあげて泣き始めた。
お母さんはその声を聞くと、
気がぬけたのか、そのままそこへ、へなへなと腰をおろしてしまった。
お母さんは、なすをもいでいる時、爆弾にやられたのだ。
上着ももんぺも焼き切れちぎれ飛び、ほとんど裸になっていた。
髪の毛はパーマネントウエーブをかけすぎたように赤く縮れていた。
体中の皮は大火傷で、じゅるじゅるになっていた。
さっき梁を担いで押し上げた右肩のところだけ皮が
ペロリと剥げて、肉が現われ、赤い血がしきりににじみ出ていた。
お母さんはぐったりとなって倒れた。
お母さんは苦しみ始め、悶え悶えてその晩死にました。

「これは、特別力持ちの お母さんだったでしょうか。
 四人も五人もの水兵さんが、 力を合せても、
 びくともしないものを動かす、 力持ちのお母さんだったでしょうか。
 皆さんのお母さんも皆さんが このようになったらこうせずにおれない。
 しかもこの力を出して下さるのが  お母さんという方なんです」
    東井 義雄(教育者)  月刊『致知』2016年9月号「恩を知り 恩に報いる」

 お母さんのお守り 

お母さんのお守り           H29.1.9

お母さん、おかえりなさい。

お母さん、ぼくはお母さんの手紙にあった通り豆を煮ました。

豆がやわらかくなった時にお醤油を少し入れました。

夕食にそれをだしてやったら、(弟が)お兄ちゃん、しょっぱくて食べられないよと云って、御飯に水をかけて、それだけ食べて寝てしまいました。

お母さん、ごめんなさい。でもお母さん、ぼくはほんとうに一生懸命豆を煮たのです。

お母さん、あしたの朝でもいいから、僕を早く起こして、もう一度、豆の煮方を教えて下さい。

お母さん、今夜もつかれているんでしょう。

お母さん、僕たちの為に働いてくれているんですね。

お母さん、ありがとう

おやすみなさい。さきにねます。 

 

   元NHK 鈴木健二著 ありがとう物語より

  父 交通事故死 加害者となる。 弁償の為家売却し納屋に住む 

  母 朝ビル清掃 昼小学校給食 夜料亭皿洗い

  お母さんのお守り:         袋に残っていた一粒の豆を長男の書いた手紙に包んだもの

  「ありがとう」の意味:  そのように有ることが難しい 当り前でない

 

 

「服を買ってくれ、食べさせてくれた。自分が食べられない時も、子供の食事だけは気にかけ空

腹のままでいた。自分を犠牲にして育ててくれたあなたこそ、真のMVP」2メートルを超え

る大男の目が潤んでいた。

米バスケットボール界のスター、ケビン・デユラント選手、2014年最優秀選手。

 貧しかった母が、ベッドのない部屋で幼い彼と兄を抱きしめてくれた思い出を語った。

 

秋風や母在す不安 亡き不安    佐野市 高橋すみ子(読売俳壇)

 

3~ぼくのむねの中にいるお母さ~           H29.1.10
        小学一年生の浦島君の作文
「おかあさん、おかあさん」
僕がいくらよんでもへんじをしてくれないのです。
あのやさしいおかあさんは、もうぼくのそばにはいないのです。
きょねんの十二月八日に、かまくらのびょういんで、
ながいびょうきでなくなったのです。
いまぼくは、たのしみにしていたしょうがく1ねんせいになり、
まい日げんきにがっこうにかよっています。
あたらしいようふく、ぼうし、ランドセル、くつで、
りっぱな一ねんせいを、おかあさんにみせたいとおもいます。
ぼくはあかんぼうのとき、おとうさんをなくしたので、
きょうだいもなく、おかあさんとふたりきりでした。
そのおかあさんまでが、ぼくだけひとりおいて、
おとうさんのいるおはかへいってしまったのです。
いまは、おじさんおばさんのうちにいます。
まい日がっこうへいくまえに、おかあさんのいるぶつだんにむかって、
「いってまいります」をするので、おかあさんがすぐそばにいるようなきがします。
べんきょうをよくしておりこうになり、
おとうさんおかあさんによろこんでもらえるようなよいこになります。
でも、がっこうでせんせいが、
おとうさんおかあさんのおはなしをなさると、ぼくはさびしくってたまりません。
でも、ぼくにもおかあさんはあります。
いつもぼくのむねの中にいて、ぼくのことをみています。
ぼくのだいすきなおかあちゃんは、おとなりのミイぼうちゃんや、
ヨッちゃんのおかあさんより、
一ばん、一ばんよいおかあさんだとおもいます。
おかあさん、ぼくはりっぱなひとになりますから、
いつまでもいつまでも、ぼくのむねの中からどっこへもいかずにみていてください。
                   子供の心に光を灯す 東井義雄 著

     

4 「ごめんなさいね おかあさん」       作詞 山田康文

ごめんなさいね おかあさん     ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい    ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくはいう      ぼくさえ 生まれなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね  大きくなった このぼくを
背負って歩く かなしさも      「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも      ぼくさえ 生まれなかったら

ありがとう おかあさん       ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり      ぼくは生きていくのです
脳性マヒを 生きていく       やさしさこそが 大切で
悲しさこそが 美しい        そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん      おかあさん
あなたがそこに いるかぎり

この詩は、いまから27年前、15歳で亡くなった山田康文くん──
やっちゃんが作った詩です。
生れた時から重度の脳性マヒで、全身が不自由、口も利けないやっちゃんが、
いのちのたけを託して作った詩です。

私が勤めていた奈良県立明日香養護学校にやっちゃんが入学してきたのは昭和43年、
彼が8歳の時でした。

以来、担任として、学部主事として、そして最後は言語訓練教師として
足かけ8年の付き合いでした。
この詩が生まれたのは、やっちゃんが亡くなる、わずか2か月前のことでした。

当時私は、養護学校卒業後の障害者たちが集える
「たんぽぽの家」をつくろうと、障害児のお母さん方とともに、
「奈良たんぽぽの会」を結成していました。

この運動もいまではOLや学生など若者たちの支持を得て、
全国で4,000人の会員を擁する全国運動に盛り上がっています。


その活動の一環として、養護学校の生徒の詩にフォーク好きの学生さんが曲をつけ、

奈良文化会館の大ホールでコンサートをする企画が持ち上がったのです。

障害程度の軽い子は、自分で詩を書くことができます。
文字が書けない子でも、手足の指や口を使って電動タイプを打つことができます。
しかし、やっちゃんのように重度の子の場合は、先生である私が抱きしめて、全身で言葉を聞くのです。
向野さんがいう言葉がやっちゃんのいいたい言葉だったら、
やっちゃんがウインクでイエスのサイン。ノーの時は舌を出す。
気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれた。

15歳の重度脳性マヒの少年が、その短い生涯の中でたった一篇、
命を絞るようにして書き残した詩である。

 向野幾世(奈良大学講師)   『致知』2002年9月号



 

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