昔、書いたかもしれないけど、一応、また書いてみよう。
中2の2学期:初めてボウリングをやった。
中3の1学期:マイボール作った。最初の200upは確か217だった。
ターキー・ノーミス。
~高3まで:週一リーグ、月例、各種大会とかよく出た。
JBC公認リーグで266出したのは高2のときだったかな。
リーグも高2後半からはA級で投げてた。そのころは180越えたらAで投げ られた。
(ちなみに、中高時代は、校則でボウリング場出入り禁止だった時代。僕は、自宅から3分のところにボウリング場があり、4Fがリーグ・大会専用みたいになっていたせいか、このフロアまで教師は来なかった。危うく遭遇しそうになったことは2-3回あった。停学にはならなかっただろうが、何回も見つかるとそこまで言ってたかも。一応、進学高校だったしね)。
大学~社会人4年目まで:この時期はあまりボウリングは出来なかったな。大学時代のボウリング場で深夜12時から20ゲーム投げる大会があったので出た。この日が千日前デパートの火事だった。明け方大会終わって、喫茶コーナーでモーニング食べながらTVで知った。
カナダ時代:カナダ・トロントに転勤になって、自分のボールをまた作り、週末は良く投げ た。この時期、最初の15G3000UPした。これが3年弱。
東京時代:東京に戻って、かなり激務のところへ配属されたこともあり、ボウリングはほと んどできなかったし、マイボールも持たなかった。この時期が約6年。
ロンドン・シリア・レバノン時代:また転勤。この3カ国では、基本的にボウリングする場所がなかった。ロンドンには数箇所テンピンボウリング場あったけど、職場のみんなと一回いっただけ。シリアのダマスカスには、ホテルの片隅になぜか3レーンのコーナーがあったことを覚えている。この時期6年8ヶ月、またも空白。
東京時代:また東京に戻り、いい歳になってきたので、定期的運動にと思い、またボールを作って始める。15G3200を出したのはこの時期。一時期調子が良すぎて、もうひとつ強いボールを投げようと独学でやって肘を痛めてしまった。投げたの約2年、その後投げられず。
カタール・シンガポール時代:ドーハのボウリング場は綺麗で良かった。まだ、肘の後遺症があって、多くのゲーム数は投げられず。月に1-2度は行く程度だったが、一回だけ250upした。シンガポール時代も、職場のレクリエーションで投げる程度。これが4年8ヶ月。
つまりは、4年ちょっとやって8年中断、3年弱やって13年弱中断、2年ちょっとやって
5年弱中断、そして日本に戻り、また再開して5年ということになる。
中断が多いからね。若いときと違って、中断長いと元にはなかなか戻らない。
8年中断して再開したカナダ時代も、わりと早い時点で180はクリアしたし、13年中断した後も、投げるたびにスコアは上がっていた。
でも、もうこの歳になると、中断したら元に戻らないのかもしれないなぁ。
中2の2学期:初めてボウリングをやった。
中3の1学期:マイボール作った。最初の200upは確か217だった。
ターキー・ノーミス。
~高3まで:週一リーグ、月例、各種大会とかよく出た。
JBC公認リーグで266出したのは高2のときだったかな。
リーグも高2後半からはA級で投げてた。そのころは180越えたらAで投げ られた。
(ちなみに、中高時代は、校則でボウリング場出入り禁止だった時代。僕は、自宅から3分のところにボウリング場があり、4Fがリーグ・大会専用みたいになっていたせいか、このフロアまで教師は来なかった。危うく遭遇しそうになったことは2-3回あった。停学にはならなかっただろうが、何回も見つかるとそこまで言ってたかも。一応、進学高校だったしね)。
大学~社会人4年目まで:この時期はあまりボウリングは出来なかったな。大学時代のボウリング場で深夜12時から20ゲーム投げる大会があったので出た。この日が千日前デパートの火事だった。明け方大会終わって、喫茶コーナーでモーニング食べながらTVで知った。
カナダ時代:カナダ・トロントに転勤になって、自分のボールをまた作り、週末は良く投げ た。この時期、最初の15G3000UPした。これが3年弱。
東京時代:東京に戻って、かなり激務のところへ配属されたこともあり、ボウリングはほと んどできなかったし、マイボールも持たなかった。この時期が約6年。
ロンドン・シリア・レバノン時代:また転勤。この3カ国では、基本的にボウリングする場所がなかった。ロンドンには数箇所テンピンボウリング場あったけど、職場のみんなと一回いっただけ。シリアのダマスカスには、ホテルの片隅になぜか3レーンのコーナーがあったことを覚えている。この時期6年8ヶ月、またも空白。
東京時代:また東京に戻り、いい歳になってきたので、定期的運動にと思い、またボールを作って始める。15G3200を出したのはこの時期。一時期調子が良すぎて、もうひとつ強いボールを投げようと独学でやって肘を痛めてしまった。投げたの約2年、その後投げられず。
カタール・シンガポール時代:ドーハのボウリング場は綺麗で良かった。まだ、肘の後遺症があって、多くのゲーム数は投げられず。月に1-2度は行く程度だったが、一回だけ250upした。シンガポール時代も、職場のレクリエーションで投げる程度。これが4年8ヶ月。
つまりは、4年ちょっとやって8年中断、3年弱やって13年弱中断、2年ちょっとやって
5年弱中断、そして日本に戻り、また再開して5年ということになる。
中断が多いからね。若いときと違って、中断長いと元にはなかなか戻らない。
8年中断して再開したカナダ時代も、わりと早い時点で180はクリアしたし、13年中断した後も、投げるたびにスコアは上がっていた。
でも、もうこの歳になると、中断したら元に戻らないのかもしれないなぁ。