角川の「俳句」5月号の付録「金子兜太読本」に
中内亮玄氏が「意志を継ぐもの 俳聖金子兜太」
と題した一文を寄稿していたらしい。
きょう、それが回ってきたので読んでみたのだが、
文末をこう結んでいる。
必ず金子兜太の名を、「現代の俳聖」として残します。
これに対し、
『現代俳句』7月号(2018年)の「人間金子兜太」という一文のなかで、
宇多喜代子氏はこう言う。
金子兜太くらい「俳聖」が似つかわしくない俳人はいないのではないか、
いや断じて「俳聖」にしてはいけないのではないか、と。
こちらのほうがはるかに、金子兜太の遺志を伝えたものになっていると思った。
中内氏が、個人的に「俳聖」と崇拝・礼賛するのは止めようのないことだけれども、金子兜太は、あくまでありのままの人間存在として、俳句人生を全うしたのではなかったか。
中内亮玄氏の金子兜太に対するこの「盲信さ」は、
いかように弁明しようと、
かなりあやういものを孕んでいる。
俳句にたいする「宣戦布告」ですらある。