続・知青の丘

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

熊本県央・石橋巡り(9月25日)~その1

2015-09-28 14:07:18 | 古墳・菊文研
<菊文研日帰り旅行>
予想に反しお天気に恵まれた県央の眼鏡橋巡り。
ヒガンバナと稲穂の実る田んぼを眺めながらの
さわやかな行楽日和

* 門前川橋(御船町木倉、1808年)

輪石が二重で輪石のつなぎ目に石の楔という
県内でも最古の工法。


* 下鶴橋(御船町滝尾、1882年)


橋本勘五郎が習得した、熊本城石垣と同様の「鞘石垣工法」


「丸型の手すり」は技術の高さを覗わせる。
アーチ形の技術の高さ・確かさと
欄干の石柱などに施されたいくつかの装飾(遊び心)が見もの。


* 八勢眼鏡橋(御船町上野、1855年)

酒造業を営んでいた林田能寛が私財をなげうって橋を架けた。
その当時熊本藩は財政難でお金は出さないが橋建設の許可を与えた。
資金提供した者には苗字帯刀が許されたりした。

日向往還に続く石畳と左奥(写真の)で繋がる。
種山石工・甚平・宇助が棟梁となって当たった。




*金内橋(山都町野尻、1850年)
惣庄屋・布田保之助の計画で、
宇一(ういち)と丈八(じょうはち)親子の手による。
残念ながら昭和初めにセメントで塗り固められたが、
裏から見ればきっちり石垣が組まれている。
車も通り、現在もよく使われている。


<丈八(じょうはち>とは
橋本勘五郎のこと。
石橋築造の技術が認められ、橋本姓を名乗ることを許された。
明治政府の依頼で、東京日本橋、浅草橋、江戸橋などの架橋に携わったという。

* 通潤橋(山都町長原、1854年)
の上からの眺め。

惣庄屋・布田保之助の尽力。
宇一(ういち)と丈八(じょうはち)親子と弟の甚平による築造。
人馬が通る橋ではなく用水路を通すことを目的とする。
サイフォンの原理を応用し、
西側に広がる白糸台地に農業用水を供給。

写真の左の方の上流で7対3に分水されて、
7の割合で通潤橋を流れる。

15分間の放水始まる。
石の管の掃除ですね~

近くに行くと凄い水しぶきと風が巻く。

熊本城の武者返しの石垣の応用だそうです。
先人の知恵は素晴らしい。
誇りに思えます。


* 霊台橋(美里町清水、1847年)
単一アーチとしては日本一。
唯一緑川本流にかかる橋。

惣庄屋・篠原善兵衛が計画し、
種山手永の宇助を棟梁として総勢72名の石工衆による。
貴婦人を想わせる橋すがた。


<惣庄屋>とは
熊本藩独自の農村地域の行政区画である「手永」の長。
手永には51の村があり、その村々の長が庄屋であった。
これらの庄屋を束ねるのが惣庄屋であった。
転勤もある地方公務員!


(つづく)





コメント (2)