四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

みんな傑作を作ろうとしてそうでないものを作っている

2007年10月01日 00時33分58秒 | 恐竜はなぜ滅んだか
多くの芸術家や工芸家がいるが、皆がみな、傑作を作ろうとしてそうでないものを作ろうとしている。

新日曜美術館で平山さんが出ていた。秋の院展出品作品の『古代ローマ遺跡 エフェソス・トルコ』を描いている所であった。

年齢も経てくると気力が衰えてくるようである。今回の院展の作品を実際に見るといつもの迫力はなかった。

エフェソスはローマ時代に滅びた町であるが、その様式から行くとギリシアを受け継いだ町である。キリスト教を認可した町でもあるが、森林伐採によりエロージョン(表土流失)で町が埋まったしまったというのである。

廃虚を掘り返した町全体が観光地となっている。

シルクロードとは趣がことなる。

平山さんも美を捉えるために細部を犠牲にしている。これは日本画をやる誰もが細かいところまで描くのを得意として、細密描写にはまってしまうが、これをやると美そのものを殺してしまう。

最初の三蔵法師の絵は確かな手応えを覚えた絵であるという。見る方もそれを実感できる。

その頃の平山さんは世間的な地位などに興味などなかったと思う。絵を描くことで精一杯であったろう。

やがて画家としての地位も安定してくると、社会的地位を求めるようになってくる。国連親善大使などやってしまうと、違った方向の世界に芽生えてくる。そういう地位は変わりのものが必ず出てくる地位である。画家の地位はその画家だけの地位である。

段々に肝心の絵に精気がなくなりだした。

誰もが傑作を描こうとして、傑作とはほど遠いものを作ってしまう。

女の人たちも、奇麗になろうとして、化粧を一生懸命やり、高い服やバッグや靴を手に入れるが、できあがるのは奇麗な本人ではなく化け物である。

世の中行こうとする方向とにまっすぐ行き着くことが出来ないようである。
手元が狂うのか、足下が狂うのか?

こどもを思い通りに作れないように、何もかも思い通りとは違った道にそれてしまう。
ピッチャーだって思い通りの球を投げることは難しい。

すべてのことはそのように事が運ぶ。
歴史もそうだろうな。ああいう間違いがあったと言って、当時の事を責めても、傑作の時代を描けないものがあったのである。

いくら金を積んだって投げられないものは投げられないのである。

いくら化粧をしても、ということになる。

原因はどこにあるかである。

問題は青にある。視界が開けるのはこの青の状態だけである。
不吹の山道を歩くと方角を間違う。

晴れ上がったもとの道を歩いて間違うことはまずないのである。

心を晴れ上がらせなければならない。それには雲を取り払わねばならない。
情の状態がきわめて大事であるということである。

邪念を払わなければ、女の人は奇麗になれない。





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