四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

何故ひとはあの世へ行くか? 事故・事件に巻き込まれる人々

2010年05月24日 04時20分44秒 | 事件・事故・自殺
まさかこんな事で死んでしまうなんて?
ちょっとしたことである。携帯操作に気をとられて電車と接触。普通ホームで携帯をいじっている人の数は少なくはない。しかし、それで電車と衝突するなどとは考えないであろう。

ところが、実際それは危険な行為である。携帯を使いながら踏切を渡っていた乗用車の事故や携帯音楽を聞きながら踏切を渡っていた高校生が電車にはねられ死亡している。

ものは使っていい場所と悪い場所がある。それは物事を行う上で重要なことである。
しかし、死んだ本人はそんなことに気づいてももはや遅いのである。
あの世へ連れていかれたのであるから、その人の人生はそこで終りである。
どうあがこうと肉親が悲しもうとピリオドは撃たれた。それがその人の人生である。

周りのものが泣こうがわめこうが、百年も立てば周りも消えているであろう。

たとえ、それが殺人でも同じである。殺されたものの人生は他に想像がでてない。
そしてその他の生き方は許されることはない。実にそのものである。

この世から殺人を無くすことができると考えるものがいるだろうか?

例えばすべての犯罪者はすべて刑に処せられる。犯罪者は必ず捕まる。
重罪犯座の時効は亡くなったが、それでは永久に犯人探しをするのであろうか?
国費を永久にその為に費やすとなると、未解決事件はいつか解決されるという前提に立っていなければならない。
事件の書類は残るとしても担当の警察や検察や裁判官、弁護士も変わっていく。国選弁護士費用が国でまかなわれるとしたら大変である。すべての遺族に対して捜査費用の一部を事件が解決し犯人が捕まるまで代償させるという意見もある。犯人が捕まらないのではなく既に死亡しているというケースもありえる。それも含めて未解決事件である。

昨日テレビで見たが、15年前のタイムカプセルから当時書いた娘の自分宛の手紙が届いた。
もちろん15年先の自分自身が不幸のさなかに沈んでいるというような夢を未来の自分に託すはずもない。
人生は幸福であると夢見ているであろう。毎年3万人以上が自殺する人たちとて15年後に自殺しているとは考えない。多分、人殺しを犯した人間も幼少の時に未来の自分が人を殺しているとは考えないであろう。
そして犯罪を犯した親とて自分の息子や娘が殺人者になっているとは考えもしなかったであろう。

殺すのも殺されるのも人間であるのが殺人である。ここに厄介な問題が立ちふさがる。
ともに人の子であり、そして人が人を憎むという連鎖が起こる。捜査するのも逮捕するのも裁くのも弁護するのも人である。

例えば娘を殺したのが息子だとする。息子は逃亡し姿を暗ます。しかし、両親は息子が犯罪者とは知らず誘拐されたと思い捜索願いを出し、娘を殺した犯罪者を死刑にして欲しいと強く願う。しかし、犯人は一向に捕まらない。やがて警察は捜査の段階で犯人は息子が怪しいと考える。その証拠も徐々に出てくる。両親がかくまっているのではないかと嫌疑をかけられることもある。両親は息子が娘を殺したことを知ると、急に犯人を憎む気がしなくなり、恐ろしさに襲われる。早く見つかってもらいたいような、そのまま逃げ延びてもらいたいような、しかし、息子は見つかることも無く結局時効を迎えることになるが、急遽国会で時効廃止になり、息子は改めて捜査されることになった。

どんな時代でもどんなに社会が変化したように見えても人間にとって死は変えられないものであり、人間の空想が死者を生かさせているのである。仏壇に線香をあげようが食べ物を供えようが、それは生きている人間の空想であり、死者のいる世界は我々にはわからない。

日本人は「死とは何か?」を考えることが少ない国民である。死よりも銭のことを考えてしまう。これは新大陸に渡った人たちもそうだが、死と芸術、死と宗教が生と強く結びつかない今日の生活では中々死を思うということはない。

常に死を想え(メメント・モリ)というような言葉は武士階級にはぶら下がっていた。
汝の敵を愛せよ、汝の敵(かたき)を愛せよ、と言われて我々は育ってこなかった。

『驢鞍橋』を読みなさいと言われて学校を卒業した人間も少ないであろう。

せいぜい金・地位・学歴などを目指せと言われて生きてきたに違いない。
人間どれだけのものがあればまっとうに生きていけるかなどとは誰も言ってくれない。

すべての人が携帯を持ち、湯水のごとく使えるようなお金を手に入れたように携帯を一日中使っていることで、命を抜かれると言うことまで考えないのは無理もない。電車に接触しなくとも確かに命は抜かれていっているのである。
そしてキレ安くなるのは、前頭前野が破壊されるからだとも言われている。犯罪を極端までに許さない社会が成立しているのであり人間と人間の対立は少なくとも深まっていくであろう。そうすると誰もが血をみなければ済まないようになる。

死刑を望む事自体、殺人者としての資格を持っていることになる。恨みがなければそうは思わないのではなく、殺意を秘め持っている故に、次なる殺人を望むのであり、この殺意を持っていない人間は稀である。つまりわれわれは時と場合に拠っては殺さないのであり、時と場合に拠っては殺すのである。もしここから逃れている人間がいるとすれば聖人か狂人である。聖人は殺すことの意味を知っているのであり、狂人は殺す意味さえしらないのである。聖なる書物といわれる聖書はその意味で正しい。「汝殺すなかれ!」。仏典においてもこのことを強調している。もちろんプラトン哲学におけるソクラテスは「人に蹴られても腹を立てなかった!」弟子が「なぜ訴えないのですか?」ソクラテス「ロバに蹴られて訴えるかね!」「…???」

ギリシア悲劇で有名な『エレクトラ』の話は母親が父親アガメムノーンを殺し、娘と息子が母親を殺す敵討ちの話である。血縁関係の敵討ちであるだけに心情的には簡単には済まない。それだけに人間の問題が浮かび上がってくる。全くの他人ならそれほど問題は複雑にはならない。身内を殺すから人間関係あるいはに人間とは何かという問題が起こってくるのである。


アサヒ・コム

携帯操作に気とられ? ホームの女性、電車と接触し死亡

2010年5月19日7時46分

 東京都中野区のJR東中野駅で18日午前10時10分ごろ、中央線下りホームにいた都内の無職女性(33)が、千葉発三鷹行き普通列車(10両編成)にはねられた。警視庁中野署によると、女性は左側頭部を打って約3時間半後に死亡が確認された。同署は、目撃情報から、女性が携帯電話の操作に気を取られて電車の接近に気づかなかったとみている。

 鉄道各社によると、駅ホームで携帯電話の操作をしている人の死亡事故は、ほとんど例がないとみられる。

 中野署によると、事故直前、ホーム中ほどにいた女性が下を向いて携帯電話を操作しているのを近くにいた複数の人が見ていたという。同駅に停車しようとした電車の3、4両目の連結部付近が、女性の側頭部に接触した。

 JR東日本によると、在来線ではホームの黄色い線から先端までは、国土交通省のガイドラインで80センチ~1メートルある。女性は携帯の操作に熱中していて、線を大きく踏み越えていたとみられる。



<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=yaaaaaaa-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=4003333411" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=yaaaaaaa-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as1&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&amp;asins=B0001E3CF0" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。