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美人はどこにいるか

2007年06月13日 03時28分43秒 | 美術・建築・工芸
世の中には美人がいるというが、客観的な美人をこの目で見たことがない。

美人といわれる女の人もどこか歪んでいるところがある。

その歪みが無いとなると、本当の美人になれるかというと必ずしもそうではないであろう。

そもそも美人の定義は難しい、去年と今年に日本人の準ミス・ユニバースとミス・ユニバースが誕生したが、何がそれに値し、そもそもこのコンテストの基準は一体何であるのかということが決して理解できない。

マスコミはありがたがって宣伝しているが、ふたりして見ると美人という範疇に入っているとは思えない。

長谷響子の方が遙かに美人ねと誰かが言っていた。

美人だと思う人と一緒にいて100万回美人だ美人だと唱えている間に当の美人はおばあちゃんになっているだろう。つまりある通過点で美人と騒がれても100年も経てば誰も見向きもしない美人になっている。

そう考えると醜女と言われている女も100年もすると別段どうということのない醜女になっている。

どんな美人も醜女も棺桶に入ってしまえば骨である。そのとき美人の骨と醜女の骨とを区別することができるであろうか。

人間の根本的な値打ちを肉の内に認めるものは、生命が短いであろう。

たとえば今上野で開催されているレオナルドの『受胎告知』は500年間も生き延びている。これは肉体をもたない女性像である。マリアは相変わらず美しい姿をしている。非の打ち所のない美形でもある。

人間の美人を求めるとそこには飛んでもない仕掛けがある。美人=善人とは限らないからである。

顔に善性を持つ美人は少なく、バラには刺があるように、美人に毒牙が無いとはいえない。我が身を滅ぼす傾城にどっぷりとつかりきることは危険極まりない。

たとえば美人を金銭というふうに考えてみてもよいであろう。金銭は我々を豊にすると信じられているが、時には絶大な不幸を招き寄せることもある。

レオナルドはそのような類のものには注意を促している。人間の生き姿を現す芸術に専心することを勧めているのである。生き姿とは自分の生き様のことである。生きているだけでは芸術にはならない。そのところは各自工夫のある人生を捜さなければならないだろう。

美人を100万回唱えると、醜くなるのである。


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